ダイガクコトハジメ - 津田梅子
出身校
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コレジエト・インスティチュート
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アーチャー・インスティチュート
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ブリンマー・カレッジ
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オズウィゴー師範学校
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参考情報
参考文献・書籍
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津田梅子
つだうめこ
1864(元治元)年12月31日(旧暦・12月3日) - 1929(昭和4)年8月16日
桃夭女塾(実践女子大学の源流)英語教師、華族女学校(現・学習院女子大学)、明治女学院講師、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)教授、女子英学塾(現・津田塾大学)創立・塾長、岩倉遣欧使節団
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1864(文久4/元治元)年12月31日(旧暦・12月3日) 津田梅子(1歳)、江戸牛込南御徒町(現・東京都新宿区南町)に下総佐倉藩出自の旧幕臣・東京府士族・津田仙と母・初子の次女として生まれる。初名、むめ(うめ)。
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1867(慶応3)年2月27日(旧暦・1月23日) 津田仙(31歳)、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共にコロラド号で再び渡米。福澤諭吉・尺振八が同乗。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れる。
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津田仙、帰国後、新潟奉行に転役。通弁・翻訳御用、英語教授方に。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し
官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。
山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。
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1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 津田仙(32-33歳)、戊辰戦争、幕府軍として越後へ。敗れて長崎へ、東京へ戻る。
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勝海舟、明治維新直後から30余年にわたり、旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を続ける。商人・大黒屋六兵衛から供出させた資金を元手に、中村正直・津田仙・永井尚志ら旧幕臣へ資金援助。徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図る。徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立するなど。
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1869(明治2)年 津田仙(33歳)、官職を辞す。築地の洋風旅館・築地ホテル館に勤める。理事に。
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1869(明治2)年 津田梅子(6歳)、幕府崩壊に伴い、父・津田仙が官職を辞す。築地のホテル館へ勤め、一家で向島へ。
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1871(明治4)年 津田仙(35歳)、明治政府が設立した北海道開拓使の嘱託に。青山の北海道開拓使農事試験場を任され、農事研究。西洋野菜の栽培を手掛けるなど、日本の近代農業の先駆者に。女子教育に関心のあった開拓次官・黒田清隆が政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、娘・津田梅子を応募。
1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団
岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
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1871(明治4)年 - 1873(明治6) 伊藤博文(31-33歳)、岩倉遣欧使節団の副使にとして渡米。サンフランシスコにて、「日の丸演説」・「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。
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1871(明治4)年 津田梅子(8歳)、岩倉遣欧使節団に随行、渡米。ワシントンへ。随行員5人の少女のうち、最年少であった。日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられる。
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1872(明治5)年5月 津田梅子(9歳)、随行員5人の少女のうち、2名が帰国。山川捨松(後に大山捨松)・永井繁子(後に瓜生繁子)と共にアメリカに残る。生涯の友となる。
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1873(明治6)年7月 津田梅子(10歳)、特定宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。ラテン語、フランス語など語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。また、ランマン夫妻に連れ添われ、休暇に各地を旅行。
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1874(明治7)年 津田仙(38歳)、津田梅子が渡米先で寄宿したチャールズ・ランマン夫妻の友人、ジュリアス・ソーパーが米国メソジスト監督派教会の宣教師として来日。来日の際に津田仙を頼ったことをきっかけとして、ドーラ・E・スクーンメーカーらによる麻布新堀町の女子小学校・海岸女学校(後に東京英和女学校と合併、青山女学校に、青山学院の源流)創立に協力。
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日本における米国メソジスト監督教会のキリスト教宣教活動、教育事業と相携えて進められる。津田仙を始め、後にキリスト者となる日本人の協力を得て、学校設立。
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1875(明治8)年1月 津田仙(39歳)、米国メソジスト監督派教会にて、ジュリアス・ソーパー宣教師よりメソジスト派信者として妻・初と共に洗礼を受ける。
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1876(明治9)年 津田仙(40歳)、東京麻布にて、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版など手掛ける学農社設立。その一環として、東京麻布東町に学農社農学校創立。キリスト教指導も行う。学内で日曜学校開催。フルベッキやジュリアス・ソーパーらを講師に招く。
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1878(明治11)年7月 津田梅子(15歳)、コレジエト・インスティチュート卒業。私立女学校アーチャー・インスティチュート進学。
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1881(明治14)年 津田梅子(18歳)、開拓使より帰国命令。山川捨松と共に、延長を申請。
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1882(明治15)年7月 津田梅子(19歳)、私立女学校アーチャー・インスティチュート卒業。同年11月、岩倉遣欧使節団派遣より10年超におよぶ留学より日本帰国。
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津田梅子、帰国するも、儒学の価値観が色濃く残る日本において、女子留学生が活躍できる場は乏しく。山川捨松・永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁す。幼少からの長い留学生活により、日本語通訳が必要な状況に、日本の風習にも不慣れであった。
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1882(明治15)年 下田歌子(29歳)、夫・下田猛雄が病に臥す。看病の傍ら、東京九段の自宅にて桃夭女塾(実践女子大学の源流)開講。日本における私学女子教育の先駆けに。時の政府高官の殆どがかつての勤王志士であり、妻の多くが芸妓や酌婦だった。世間知らずではないが、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教える。
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1883(明治16)年 津田梅子(20歳)、外務卿・伊藤博文の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会。華族子女を対象に教育を行う私塾・桃夭女塾(実践女子大学の源流)を設立した下田歌子を紹介される。
1884(明治17)年4月 学習院、宮内省所轄の官立学校に
学習院学制および女子学習院学制に基づく教育機関で、華族の子弟なら原則として無償で入学することができた。学制に基づく文部省管轄の学校と必ずしも一致しないが、初等科は尋常小学校、中等科は中学校・高等女学校、高等科は旧制七年制高等学校に相当。
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1884(明治17)年5月 谷干城(48歳)、非職でありながら度々政府から復職を望まれ、学習院第2代院長として復帰。かねてより華族の教育を構想していた伊藤博文に改革を依頼される。皇室の藩屛(守護)となることを目指した華族の子弟教育を推進、軍人養成に力を注ぐ。将来の議会政治にも目を向け、華族が天皇に忠誠を尽くし、独立した勢力として議会で公平に政治活動していく構想も。政治・外交にも長けた多様な人材育成を目指す。
1884(明治17)年7月7日 華族令
制度取調局局長・伊藤博文を中心に制定。華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区分。旧公家の華族は家格により、旧大名の華族は石高により爵位受爵。また、国家に勲功ある者を新たに華族に列する。爵位は代々世襲される(永世華族)。1889(明治22)年貴族院令にて、同爵の互選により貴族院議員となる特権を持つ。華族令制定直後の7月中に509名の有爵者が誕生。
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1884(明治17)年 下田歌子(31歳)、夫・下田猛雄が病死。桃夭女塾の実績と皇后の推薦により、華族の子女を教える新設の華族女学校(現・学習院女子大学)教授に。翌年、学監に。古式ゆかしい儒教的な教育を施す。
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1885(明治18)年8月、昭憲皇太后の近代日本に相応しい、質実剛健で徳育に基本を置いた上流女子教育をという令旨により、四谷区尾張町に華族女学校開校。
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津田梅子、何度か薦められた縁談を断る。「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と、日本の結婚観に辟易し生涯未婚を誓う。
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1888(明治21)年 津田梅子(25歳)、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日。留学を薦められ、再度の留学を決意。父・津田仙の知人、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介により、留学希望を伝え学費免除の承諾を得る。華族女学校校長・西村茂樹より、2年間の留学を許可される。
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1889(明治22)年7月 津田梅子(26歳)、再び渡米。進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、ブリンマー・カレッジで生物学専攻。使命であった教授法に関する研究は、オズウィゴー師範学校で学ぶ。
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津田梅子、アリス・ベーコンがアメリカ帰国。日本習俗に関心を持ち、日本女性を研究。『日本の女性』出版を手助けする。これが、日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われている。日本女性留学のための奨学金設立を発起、公演や募金活動など行う。
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1892(明治25)年8月 津田梅子(29歳)、帰国。再び、華族女学校に勤める。
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1893(明治26)年春 下田歌子(40歳)、常宮・周宮両内親王の御養育主任・佐々木高行より、皇女教育のため欧米教育視察を拝命。皇室の伝統を保持しつつ、両内親王を海外賓客と接しても遜色ない、時代に順応した皇女として教育することを目論む。
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1893(明治26)年9月 下田歌子(40歳)、イギリス・ブライトンで英語学校へ通う。12月、ロンドンへ。ヴィクトリア女王の女官を務めるエリザベス・アンナ・ゴルドンの知遇を得る。ヴィクトリア女王の孫娘が受ける教育と母親たちの生活に触れる。
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下田歌子、ヴィクトリア女王一家が市井の人々と親しく交わる姿や、ヴィクトリア女王が主婦として家庭を支える姿に強い感銘を受ける。出会う女性たちのその背景に、教育と生活習慣があることを知る。
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1894(明治27)年 下田歌子(41歳)、皇女教育の目的を越え、一般女学校への視察を始める。
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1894(明治27)年 津田梅子(31歳)、明治女学院講師を兼任。
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1895(明治28)年春 下田歌子(42歳)、チェルトナム・レディーズ・カレッジで校長ドロシア・ビールと面会。その人格と学問の深さ、教育に対する高い理念に感銘を受ける。その後、ケンブリッジ大学の女子学寮ニューナム・カレッジと女子教育養成校ケンブリッジ・トレーニング・カレッジを視察。さらに湖水地方、スコットランド、フランス、ドイツ、イタリアなど大陸の女子学校を訪問。
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下田歌子、洋行視察を経て、キリスト教信仰が自主独立と慈善博愛の精神を育み、学校教育や生活習慣の基盤となっていると理解する。また、育児・教育学・衛生・生理・看護法に関する知識は、実利主義の下で最新の科学が背景にあることを理解する。
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1895(明治28)年5月8日 下田歌子(42歳)、ヴィクトリア女王との謁見を果たす。
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1895(明治28)年8月 下田歌子(42歳)、日本帰国。皇女教育を巡る宮中の勢力争いの渦中に。
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1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。
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1897(明治30)年3月24日 成瀬仁蔵(40歳)、日本女子大学校第一回創立委員会開催。創立委員長に大隈重信。総理大臣・伊藤博文、学習院院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、財界人・渋沢栄一、岩崎弥之助ほか各界の重鎮の多大な支援を受ける。
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1897(明治30)年 津田仙(61歳)、事業引退。鎌倉で過ごす。
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1898(明治31)年11月 下田歌子(45歳)、当時日本の一般女性があまりにも男性の言いなりになっていた姿に心を痛める。「日本が一流の大国と成らん為には、大衆女子教育こそ必要」と、帝国夫人協会設立。
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1898(明治31)年 津田梅子(35歳)、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)教授を兼任。
1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行 高等女学校令
中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める。
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1899(明治32)年 下田歌子(46歳)、帝国夫人協会の事業として、麹町に私立・実践女学校(現・実践女子大学)と女子工芸学校創立。初代校長に。日本で初めて、女学校の制服を制定。
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1900(明治33)年7月 津田梅子(37歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、女子英学塾(現・津田塾大学)創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。
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津田梅子、女子英学塾(現・津田塾大学)開校式辞にて、「真の教育には物質上の設備以上に、もっと大切なことがあると思います。それは、一口に申せば、教師の資格と熱心と、それに学生の研究心とであります。」
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1901(明治34)年4月20日 成瀬仁蔵(44歳)、日本で初めての組織的な私立の女子高等教育機関・日本女子大学校(現・日本女子大学)創立。初代校長に。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」を教育方針に掲げる。設立者総代、大隈重信。
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1902(明治35)年 津田梅子(39歳)、名前を漢字に改め、梅子に。
1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令
中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。
予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
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1903(明治36)年7月 津田梅子(40歳)、専門学校令に基づき、女子英学塾を社団法人に。
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1906(明治39)年9月 星野あい(23歳)、津田梅子が創設した日本婦人米国奨学金の受給者に選ばれる。津田梅子の母校・ブリンマー大学入学。
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1908(明治41)年4月24日 津田仙(72歳)、死去。享年72歳。新島襄・中村正直と共に、「キリスト教界の三傑」と称される。没後、内村鑑三や新渡戸稲造らが追悼文を発表、生涯の事業を讃えて「大平民」と呼ぶ。
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1912(明治45/大正元)年 星野あい(29歳)、帰国。女子英学塾(現・津田塾大学)教授に。英語・英文学・生物学を教える。
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1918(大正7)年 星野あい(35歳)、女子英学塾(現・津田塾大学)よりコロンビア大学に派遣される。ティーチャーズ・カレッジにて、教育学M.A.取得。
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1919(大正8)年1月 津田梅子(56歳)、女子英学塾の経営基礎が整うと、塾長辞職。創業期より健康を損ない、鎌倉の別荘で長期闘病。
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1919(大正8)年9月 星野あい(36歳)、帰国。重態に陥っていた病気療養中の津田梅子より、「あまり規模を大きくしないこと、あくまでも堅実にやってゆくこと、万事よろしく頼む」と紙片を受け取る。女子英学塾(現・津田塾大学)教頭に就任。
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1925(大正14)年 星野あい(42歳)、女子英学塾(現・津田塾大学)塾長代理に。
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1929(昭和4)年8月16日 津田梅子(66歳)、死去。享年66歳。生涯、独身を貫く。
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1929(昭和4)年 星野あい(46歳)、津田梅子が死去。後を託され、女子英学塾(現・津田塾大学)第2代塾長に。