ダイガクコトハジメ - 澤山保羅
出身校
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長州藩郷校・憲章館
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ノースウェスタン大学
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参考情報
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参考文献・書籍
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年表 | 動画
澤山保羅
さわやまぽうろ
1852(嘉永5)年5月10日(旧暦・3月22日) - 1887(明治20)年3月27日
キリスト教徒・牧師、梅花女学校(現・梅花学園・梅花女子大学)創立
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1852(嘉永5)年5月10日(旧暦・3月22日) 澤山保羅(1歳)、周防国吉敷郡吉敷村(現・山口県山口市吉敷赤田大形)に吉敷毛利家の毛利元一に仕える下級武士・澤山源之丞の子として生まれる。
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1858(安政5)年 澤山保羅(7歳)、郷校・憲章館に学ぶ。四書五経の漢学・書道・武術・礼式など学ぶ。同輩に、服部一三。
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1866(慶応2)年 澤山保羅(15歳)、薩長同盟、奇兵隊を始めとする長州藩内の軍団を組織。良城隊と呼ぶ洋式軍隊が編成されると、父・澤山源之丞と共に入隊。
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1866(慶応2)年 澤山保羅(15歳)、第二次長州征伐、従軍。
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1867(慶応3)年5月(旧暦・4月) 服部一三(17歳)、河瀬真孝の長崎追従の許可をきっかけに、長崎遊学。洋学を学ぶ。後にイギリス総領事となるロバートソン、アストンに師事。長崎に設立された佐賀藩校の英学塾・致遠館にて、岩倉具視の子である岩倉具定・岩倉具経兄弟と共に大隈重信やフルベッキから教えを受ける。伊藤博文や井上馨の居宅で生活、渡航の機会を窺がう。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1868(慶応4/明治元)年 澤山保羅(17歳)、三原に赴き吉村菱山に師事、陽明学を学ぶ。今治に渡り、渡辺渉に師事。
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1869(明治2)年末 服部一三(19歳)、官費留学が決定。岩倉具定・岩倉具経兄弟と共に、アメリカニュージャージー州ニューブラウンズウィックへ留学。
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1870(明治3)年 澤山保羅(19歳)、洋学を学ぶため、神戸に赴く。神戸でアメリカン・ボードの牧師ダニエル・クロスビー・グリーンの自宅で英語を学ぶ。自宅で行われる礼拝や聖書研究に出席、キリスト教信仰に目覚める。
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1871(明治4)年 澤山保羅(20歳)、同郷・服部一三・名和道一のアメリカ留学に刺激を受け、アメリカ留学を決意。グリーン牧師、故郷イリノイ州のエバンストンの兄家に寄寓、働きながら勉強するよう手配。
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1871(明治4)) - 1873(明治6)年、岩倉遣欧使節団にて岩倉具視らが欧米との条約改正にあたるも、日本がキリスト教の禁制と迫害を止めない限り、交渉が全く問題にされないことを知る。明治新政府にキリスト教解禁を上申。1873(明治6)年に禁制撤廃、日本でのキリスト教活動も許可されるが、信教の自由公認とは程遠いものであった。
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1872(明治5)年5月 澤山保羅(21歳)、片道の旅費を工面、アメリカへ渡る。渡米の際、キリスト教に改宗しないという誓約書を長州藩命により父・澤山源之丞に差し出す。サムエル・グリーン宅に身を寄せ、ノースウェスタン大学予科に聴講生として在籍。
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1872(明治5)年 澤山保羅(21歳)、アメリカの会衆派教会エバンストン第一組合教会にて、パッカード牧師より洗礼を受ける。
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1873(明治6)年 澤山保羅(22歳)、パブリック・スクールに通学。ボーテル家に身を寄せる。ボーテル家を訪ねたH・H・レビッド宣教師と出会う。レビッド宣教師より、伝道者となり、日本伝道に献身するよう熱心に勧められる。日本宣教を決意、パッカード牧師に師事し、聖書研究に取り組むことに。使徒パウロの世界に目が開かれ、使徒時代の精神とパウロ神学に傾倒。自分の新生を自覚、名前を馬之助から「保羅」(Paul)に改める。日本宣教のため、シカゴの神学校で学ぶ。
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1876(明治9)年8月 澤山保羅(25歳)、帰国。大阪府参事・内海忠勝とH・H・レビットに面会。内海忠勝より明治新政府への出仕を誘われ、迷う。レビット宣教師より初心に帰れと説得され、申し出を断る。
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1876(明治9)年 澤山保羅(25歳)、大阪の松村診療所にて、アメリカン・ボードの宣教医アーサー・アダムズの通訳に。訪れる人に伝道、安息日学校を指導。
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1877(明治10)年1月20日 澤山保羅(26歳)、松村診療所を仮会堂とし、12名の教会員により浪花公会(現・浪花教会)設立。会衆政治に則り、日本最初の按手礼を含む公会設立式が執り行われ、牧師に。同日、澤山保羅により綱島佳吉らの洗礼式が執り行われる。自身も診療所で働き、教会費自給による運営を試みる。この教会形成が、日本組合教会の基盤を作る。
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1877(明治10)年 澤山保羅(26歳)、妹・いまが吉敷で死去。葬儀のため、帰京。自身に心酔する成瀬仁蔵という青年の訪問を受ける。同道、共に神戸へ。
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1877(明治10)年 成瀬仁蔵(20歳)、アメリカ留学帰国後牧師になった同郷・澤山保羅に感化を受け、山口を離れる。
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1878(明治11)年 成瀬仁蔵(21歳)、澤山保羅に導かれ、大阪浪花教会でキリスト教受洗。
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1878(明治11)年1月 澤山保羅(27歳)、成瀬仁蔵ら教会信徒有志の協力を得て、キリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校(現・梅花学園・梅花女子大学)設立。牧師をつとめた浪花公会とその母教会である梅本町公会(現・大阪教会)教会員の協力があったことから、「梅花」と名付ける。大阪で最初の女学校に。成瀬仁蔵を主任教師に、学校運営を託す。
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1878(明治11)年2月 澤山保羅(27歳)、浪花教会員が天満地区へ福音宣教をしたことをきっかけに、浪花教会設立。しかし、病床にあり、牧師辞職。代務者に牧会を依頼。
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1878(明治11)年 - 1882(明治15)年 成瀬仁蔵(21-25歳)、澤山保羅がキリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校設立、教会信徒有志と共に協力。主任教師に。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職に熱心であったが、伝道活動への意思強く。1882(明治15)年に卒業生をおくると、教職を辞職。牧師としての活動をはじめる。
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1879(明治12)年 澤山保羅(28歳)、旧岸和田藩主・岡部長職より依頼、松尾敬吾を定住伝道者として伝道を始める。
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1883(明治16)年 澤山保羅(32歳)、梅花女学校校長に。陣頭指揮を執り、クリスチャンスクールとして存続を図る。
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1883(明治16)年 成瀬仁蔵(26歳)、澤山保羅の浪花教会を拠点に、奈良県生駒郡郡山町(現・大和郡山市)の出張伝道所へ移る。
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1884(明治17)年 成瀬仁蔵(27歳)、郡山教会の独立を許され、初代牧師に。布教活動を行う一方、女子教育を研究。
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1886(明治19)年 成瀬仁蔵(29歳)、病床の澤山保羅より赴任を懇願され、新潟に移る。新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)設立。
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1887(明治20)年3月27日 澤山保羅(36歳)、死去。享年36歳。
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1890(明治23)年 - 1894(明治27)年1月 成瀬仁蔵(33-37歳)、アメリカ留学。アンドーバー神学校・クラーク大学にて教育学や社会学・キリスト教などを学ぶ。ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察。女子教育研究。英文で『澤山保羅伝』出版。
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