ダイガクコトハジメ - 獨協大学
学校略歴
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1860(安政7/万延元)年、加藤弘之、蕃書調所教授手伝に、西洋文明の本質は兵学・武備よりも政体にあるとし政治学に転じる、ドイツ語を学ぶ、日本のドイツ学の始まり
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1871(明治4)年 - 1873(明治6)年、岩倉遣欧使節団、日本の政治体制のあるべき姿について、大久保利通・伊藤博文らはドイツより学ぶべきであると考える、ビスマルクより強い影響を受ける
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1873(明治6)年11月10日、大久保利通、ビスマルクの下で官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに、強い行政権限を持つ官僚機構として内務省設立、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに
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1876(昭和9)年、近代的裁判制度の発足に伴い、代言人(現・弁護士)資格試験制度が成立、法律実務家の育成が急務となるも、官立の司法省明法寮(後に司法省法学校)・東京大学法学部だけでは人材需要に十分対応できず、私立法律学校が発足
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1880(明治13)年、代言人資格試験制度が厳格化、本格的な私立法律学校の整備が進む
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1881(明治14)年10月、明治十四年の政変、政府内で憲法制定論議、大日本帝国憲法は君主大権を残すドイツのビスマルク憲法を模範とすることが決定
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1881(明治14)年9月18日、政府主導により獨逸学協会設立
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1883(明治16)年、西周、獨逸学協会を母体に獨逸学協会学校創立、加藤弘之など啓蒙学者が設立に関与、設立メンバーには伊藤博文ら政治・外交を支える要人が名を連ねる、学校運営は品川弥二郎が中心的役割を果たす
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1885(明治18)年7月、ドイツの法律・政治を学ぶ専修科設置、司法省・文部省など政府から多額の財政支援、九大法律学校の一つに数えられる
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1885(明治18)年12月22日、森有礼、第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に、『学政要領』立案、国家至上主義の教育観による「国体教育主義」を基本方針に近代日本の学校諸制度を整備、その後の教育行政に引き継がれていく
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1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行、帝国大学令により帝国大学発足、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定、大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成、これらをまとめる総長を勅任官とする
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1886(明治19)年、私立法律学校特別監督条規、東京府下の私立法律学校5校について、帝国大学総長の監督下に(五大法律学校)、帝国大学のみでは間に合わない行政官僚育成について、その補助的な機能を担わせたいという政府の思惑があり、高等文官試験受験の特権を認める代わりに私立法律学校について監督・干渉することが構想される
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1887(明治20)年7月25日、文官試験試補及見習規則、官僚任用制度として高等文官試験(高等試験)が定められる、帝国大学法科大学・帝国大学文科大学の卒業生に対し無試験で高等官(勅任官・判任官)試補となる特権が与えられる、文部大臣により特別認可された私立法律学校卒業生に受験資格が与えられるとされ、この特権を得られるか否かが私立法律学校の経営・存続を左右する死活問題に、先の五大法律学校に加えて認可を受ける
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1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法(明治憲法)公布、君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に伊藤博文が日本独自の憲法を草案
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1893(明治26)年12月、司法省指定学校、判事検事登用試験規則に基づき、判事検事登用試験受験資格が九校の私立法律学校卒業生に与えられる、帝国大学法科大学卒業生は試験免除で司法官試補任用、九校から関西法律学校(現・関西大学)を除き帝国大学法科大学を加えた法律学校が「九大法律学校」と呼ばれる
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1895(明治28)年、政府からの補助金が打ち切られたことより経営が行き詰まり、教授陣や教育課程がそのまま帝国大学法科大学獨法科へ移管、廃校
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1953(昭和28)年、天野貞祐、戦後日本の国家スタイルがドイツ型からアメリカ型に移行、獨逸学協会学校の後身である獨協学園が衰微、母校再建のため獨協学園校長に
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1964(昭和39)年、獨協学園に獨協大学創立
創立者
学校総称
学校年表
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団
岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
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1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。
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1871(明治4)年 - 1873(明治6) 伊藤博文(31-33歳)、岩倉遣欧使節団の副使にとして渡米。サンフランシスコにて、「日の丸演説」・「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。
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1873(明治6)年11月10日 大久保利通(43歳)、ビスマルクの下で官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに。強い行政権限を持つ官僚機構として、内務省設立。大蔵省より地方行財政や殖産興業に関する組織・権限を内務省に移管。初代内務卿として実権を握る。学制・地租改正・徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、「殖産興業」政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、有司専制として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。
1876(昭和9)年 代言人資格試験制度・私立法律学校発足
江戸時代において”法律”はお上が制定・運用するものであり、法や法律に関する研究・出版を行うことは「お上を誹謗する振る舞い」として厳しく制限、法律学が独立した学問分野として成立することはあり得なかった。しかし、明治時代に入って欧米社会に進出。欧米各国と対等に付き合うため、法典や司法制度など整備が急務となった。官立法学校として1871(明治4)年に司法省明法寮(後に司法省法学校)・1877(明治10)年に東京大学法学部が設置され、法律・法学の教育・研究が進められる。
法典整備に先行し、近代的裁判制度が発足。代言人(現・弁護士)の資格試験制度が成立。このため、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず。各地に試験準備のための私立法律学校が開校。私立大学発足の一大源流となる。
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東京大学法学部では英米人御雇教師により英米法が講じられ、司法省明法寮(後に司法省法学校)ではボアソナードらフランス人御雇教師によりフランス法学が講じられる。このことがフランス法学派と英米法学派との対立、後の民法典論争に大きく影響する。また、官立両法律学校は英語・フランス語それぞれに習熟している者でなければ十分に学ぶことは不可能であった。
1880(明治13)年 代言人資格試験制度の厳格化
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定。代言人(現・弁護士)規則改正により資格試験が厳格化。司法省法学校・東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者・官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように。
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1881(明治14)年9月18日、当時最先端を誇ったドイツ文化の移植を目的に。政府主導により、獨逸学協会(獨協大学の源流)設立。初代総裁に、北白川宮能久親王就任。
1881(明治14)年10月 明治十四年の政変
自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。
政府から追い出され下野した福澤諭吉の慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓・矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。
1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭
自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。
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1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。
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1883(明治16)年 西周(55歳)、獨逸学協会を母体に、獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立。初代学長に。加藤弘之など啓蒙学者が設立に関与、精神的支柱にドイツ啓蒙主義を置く。設立メンバーに、政治・外交を支える品川弥二郎・井上毅・青木周蔵・桂太郎・平田東助・伊藤博文らが加わる。学校運営は、品川弥二郎が中心的役割を果たす。
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1883(明治16)年 品川弥二郎(41歳)、北白川宮能久親王を会長、自身を委員長に獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立。学校運営において中心的役割を果たす。
1886(明治19)年 私立法律学校特別監督条規
東京府下に所在し、特に教育水準が高く特別許認可を受けた英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校・東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)の5校について、帝国大学総長の監督下に。帝国大学特別監督学校(五大法律学校)となる。
背景に、帝国大学のみでは間に合わない行政官僚育成について、新たに私立法律学校にもその補助的な機能を担わせたいという政府の思惑があり。また、高等文官試験受験の特権を認める代わりに、放任されていた私立法律学校について監督・干渉することが構想された。
1887(明治20)年7月25日 文官試験試補及見習規則
官僚任用制度として、高等文官試験(高等試験)が定められる。試験は奏任官対象の高等試験と判任官対象の普通試験の二種類が設けられる。帝国大学法科大学・帝国大学文科大学の卒業生に対し、無試験で高等官(勅任官・判任官)の試補となる特権が与えられる。
文部大臣により特別認可された私立法律学校卒業生に受験資格が与えられるとされ、英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校・東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)に加えて、独逸学協会学校と東京仏学校(後に東京法学校と合併し和仏法律学校、現・法政大学)の7校が認可される。この特権を得られるか否かが、私立法律学校の経営・存続を左右する死活問題となる。
1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)
君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。
明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。
版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。
衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。
1893(明治26)年12月 司法省指定学校
司法省が判事検事登用試験規則に基づき、判事検事登用試験受験資格を関西法律学校(現・関西大学)・日本法律学校(現・日本大学)・東京法学院(現・中央大学)・独逸学協会学校(獨協大学の源流)・東京専門学校(現・早稲田大学)・明治法律学校(現・明治大学)・慶應義塾(現・慶應義塾大学)・専修学校(現・専修大学)・和仏法律学校(現・法政大学)の九校の私立法律学校卒業生に与える。帝国大学法科大学卒業生は試験免除で司法官試補に任命された。
九校から関西法律学校(現・関西大学)を除き、帝国大学法科大学を加えた法律学校を「九大法律学校」と呼ぶ。
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1895(明治28)年、獨逸学協会学校専修科(獨協大学の源流)、政府からの補助金が打ち切られたことより経営が行き詰まる。教授陣や教育課程がそのまま帝国大学法科大学獨法科へ移管。廃校。普通科は旧制中学校として存続、現・獨協中学校・高等学校に。
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1953(昭和28)年 天野貞祐(70歳)、戦後日本の国家スタイルがドイツ型からアメリカ型に移行するに伴い、母校・獨逸学協会学校の後身である獨協学園が衰微。母校再建のため、獨協学園校長に。自らが信条とする「学問を通じての人間形成」の精神に則った獨協再建に尽くす。
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1964(昭和39)年 天野貞祐(81歳)、獨協学園に獨協大学創立。初代学長に。
獨協大学年表