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ダイガクコトハジメ - 目賀田種太郎

目賀田種太郎

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目賀田種太郎

めがたたねたろう

1853(嘉永6)年8月25日(旧暦・7月21日) - 1926(大正15)年9月10日

文部省・司法省・大蔵省、代言人、東京代言人組合(現・東京弁護士会)、判事、日本法律会社結成、専修学校(現・専修大学)創立東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)創立協力、横浜税関長、韓国統監府財政監査長官、貴族院議員、枢密顧問官

「目賀田種太郎」に関する書籍 [外部]

  • 1853(嘉永6)年8月25日(旧暦・7月21日) 目賀田種太郎(1歳)、江戸本所太平町に幕臣・目賀田幸助の長男として生まれる。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

 

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。
山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

 

  • 1868(慶応4/明治元)年3月13日・14日 勝海舟(46歳)、官軍により予定されていた江戸城総攻撃の直前、西郷隆盛と会談。江戸城開城手筈と徳川宗家の今後について交渉。結果、江戸城下での市街戦を回避、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われる。

1868(慶応4)年閏4月 - 徳川家・旧幕臣の駿府移住

徳川慶喜に代わり、田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を相続。駿河国・遠江国・陸奥国の70万石が与えられ、駿河府中藩が立藩。江戸在住の旧幕臣、駿府移住。家族を含めて2万人規模に達する。江戸城無血開城を主導した旧幕臣が藩政を支え、準中老・大久保一翁、幹事役・勝海舟や山岡鉄舟らが政務を担う。大規模な移住に藩政逼迫、渋沢栄一が財政再建の任に起用される。

  • 1869(明治2)年 目賀田種太郎(17歳)、静岡学問所英学世話心得から英語五等教授に。

1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収

明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1868(明治元)年10月27日(旧暦・9月12日)、開成所開成学校に改称。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校大学と改称。昌平学校大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校大学東校(だいがくとうこう)と改称。

  • 1870(明治3)年4月 目賀田種太郎(18歳)、藩命により貢進生として上京、大学南校入学。

  • ​1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。

1870(明治3)年7月27日 貢進生

太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。

1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。

  • 1870(明治3)年8月 目賀田種太郎(18歳)、大学南校の第1回国費留学生に。アメリカ留学を願い出る。

  • 1871(明治4)年 田尻稲次郎(22歳)、刑部省国法民法課勤学の資格を得て、渡米留学。ニューブランズウィック大学予備校入学。後に、ハートフォード高等学校に転じる

  • 1872(明治5)年9月 目賀田種太郎(20歳)、渡米、ハーバード法律学校(現・ハーバード大学)入学。入学規定であった「キリスト教徒であること」に異を述べ、入学許可を得る。

  • 1873(明治6)年 田尻稲次郎(24歳)、留学生一斉帰朝命令の際、ハートフォード高等学校校長はじめ篤志の援助で勉学続行。翌年、イェール大学入学。経済学・財政学を学ぶ。タフト米国大統領と親交、駐米公使・吉田清成に日本の財政改革を訴える意見書提出。

  • 1874(明治7)年7月 目賀田種太郎(22歳)、ハーバード法律学校(現・ハーバード大学)卒業。

  • 1874(明治7)年12月 駒井重格(23歳)、旧桑名藩主・松平定敬父子に随伴し、アメリカ留学。ニューブランズウィック大学予備門で学んだ後、ラトガース大学で経済学を学ぶ。英語のほか、フランス語にも熟達。渡米中、同じく経済学を学ぶ相馬永胤田尻稲次郎目賀田種太郎と親交。​

  • 1875(明治8)年 目賀田種太郎(23歳)、文部省の留学生監督となり、再渡米。東京開成学校の生徒9人(鳩山和夫・小村寿太郎・菊池武夫・斎藤修一郎・長谷川芳之助・松井直吉・原口要・平井晴二郎・南部球吾)を引き連れる。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身もハーバード法律学校(現・ハーバード大学)で法律を学ぶ。

  • 1875(明治8)年6月 相馬永胤(26歳)、再渡米、ニューヨーク州ピークスキル学院商業課程卒業。10月、コロンビア法律学校(現・コロンビア大学ロースクール)入学。同期の日本人留学生に、徳川御三卿清水家当主・徳川篤守、鳩山和夫ほか、文部省の留学生監督に目賀田種太郎

  • 1875(明治8)年 松井直吉(19歳)、アメリカ留学。文部省の第1回海外派遣留学生としてコロンビア大学鉱山学科入学。化学を学ぶ。

  • 1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月 伊沢修二(25-28歳)文部省師範学校教育調査のため、神津専三郎・高嶺秀夫と共にアメリカ留学。マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学ぶ。同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。ハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究。

  • 伊沢修二、渡米中、ハーバード大学で学ぶ目賀田種太郎と出会う。日本の音楽唱歌を欧米の音楽と同化させようと、共に研究。東京音楽学校創立に向け尽力。

  • 1875(明治8)年 相馬永胤(26歳)、渡米留学中の法学徒が集うクラブ・研究会で、討論会などを開き演説の練習や法律語彙の翻訳を行う日本法律会社結成。中心的役割を担う。専修学校の土台に。1月21日の日記に「われわれが帰国後、われわれの法律上の計画を実行しようというのが、わが法律クラブの目的である」と記す。​

  • 相馬永胤、コロンビア法律学校卒業後、イェール大学大学院入学。法律学・経済学を学ぶ。また、ボードウィン教授の法律事務所で実務を身につける。経済学クラスにて、終生の同志となる田尻稲次郎と出会う。

  • 相馬永胤、内務省よりアメリカの商業事情調査に派遣されていた神鞭知常、ラトガース大学で経済学を学んでいた駒井重格と出会う。​

1876(昭和9)年 代言人資格試験制度・私立法律学校発足

江戸時代において”法律”はお上が制定・運用するものであり、法や法律に関する研究・出版を行うことは「お上を誹謗する振る舞い」として厳しく制限、法律学が独立した学問分野として成立することはあり得なかった。しかし、明治時代に入って欧米社会に進出。欧米各国と対等に付き合うため、法典や司法制度など整備が急務となった。官立法学校として1871(明治4)年に司法省明法寮(後に司法省法学校)・1877(明治10)年に東京大学法学部が設置され、法律・法学の教育・研究が進められる。

法典整備に先行し、近代的裁判制度が発足。代言人(現・弁護士)の資格試験制度が成立。このため、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず。各地に試験準備のための私立法律学校が開校。私立大学発足の一大源流となる。

  • 東京大学法学部ではボアソナードらフランス人御雇教師によりフランス法学が講じられ、司法省明法寮(後に司法省法学校)では英米人御雇教師により英米法が講じられる。このことがフランス法学派と英米法学派の対立、後の民法典論争に大きく影響する。また、官立両法律学校はフランス語・英語それぞれに習熟している者でなければ十分に学ぶことは不可能であった。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1877(明治10)年7月 目賀田種太郎(25歳)、帰国後、文部省に勤務。

  • 1879(明治12)年 相馬永胤(30歳)、日本に帰国。司法省出仕、代言人に。次いで判事に任じられるも辞職。目賀田種太郎と共同で東京市京橋区(現・東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの田尻稲次郎駒井重格が寄宿。4人で起居を共にし、法律学校設立の準備に動き出す。

  • 1879(明治12)年9月 駒井重格(28歳)、帰国。江木高遠・鈴木智雄と共に、東京府第一中学英語教諭に。また、専修学校創立に参加。​

  • 1879(明治12)年 田中不二麿(35歳)、日本の学校における音楽教育の研究を目的に、文部省音楽取調掛を開設。伊沢修二を御用係に。彼らを欧米に派遣、『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』などのドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に、音楽教育の近代化を図る。

  • 1879(明治12)年 伊沢修二(29歳)文部省音楽取調掛に。目賀田種太郎と連名にて、日本の音楽教育の意見書提出。米国で師事したボストン音楽学校創立者・ルーサー・メーソンを日本に招く。メーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植。『小學唱歌集』編纂。

  • 1880(明治13)年6月 目賀田種太郎(28歳)、司法省附属代言人の最初の3人の一人に。東京代言人組合(現・東京弁護士会)会長に。

  • 1880(明治13)年6月 相馬永胤(31歳)、司法省附属代言人の最初の3人の一人に。

1880(明治13)年 代言人資格試験制度の厳格化 

日本最初の近代法として刑法・治罪法制定。代言人(現・弁護士)規則改正により資格試験が厳格化。司法省法学校東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者、官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように。

  • 目賀田種太郎、専修学校にて自ら編纂した『私訴犯法』・『羅馬法典』など教科書に、法律学を教授。

  • 1881(明治14)年3月 目賀田種太郎(29歳)、判事に。

  • 1883(明治16)年 目賀田種太郎(31歳)、大蔵少書記官に。

  • 1886(明治19)年 目賀田種太郎(34歳)、主税局監査課長に。地租増徴など増税、沖縄土地整理、地価修正、関税改正など事業に携わる。日清戦争戦費調達を税制面より支える。

  • 1887(明治20)年 目賀田種太郎(35歳)、主税局調査課長兼監査課長に。

  • 1890(明治23)年5月12日 伊沢修二(40歳)、奏楽堂を含む校舎を新築。日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関として東京音楽学校開校。当初は西洋音楽の教育を中心とする。修業年限1年の予科と本科(2年制の師範科および3年制の専修科)から構成。

  • 1890(明治23)年7月26日 勝海舟(68歳)、三女が専修学校創立者・目賀田種太郎の妻となったことを繋がりに、専修学校の繁栄に尽力。卒業生に向けて、「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極む。」の自筆の書を贈る。

  • 1891(明治24)年 目賀田種太郎(39歳)、横浜税関長に。

  • 1894(明治27)年 目賀田種太郎(42歳)、大蔵省主税局長ほか歴任、税制・財政制度を整備。

  • 1904(明治37)年8月22日 目賀田種太郎(52歳)、 貴族院勅選議員に。

  • 1904(明治37)年10月 目賀田種太郎(52歳)、 韓国財政顧問に。

  • 1907(明治40)年 目賀田種太郎(55歳)、韓国統監府財政監査長官に。男爵綬爵。

  • 1920(大正9)年 目賀田種太郎(68歳)、国際連盟第1回総会にて、石井菊次郎・林権助と共に日本代表団の1人として大使を務める。

  • 1923(大正12)年 目賀田種太郎(71歳)、枢密顧問官に。

  • 1926(大正15/昭和元)年9月10日 目賀田種太郎(73歳)、死去。享年73歳。

 

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