初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
関連:慶應義塾・適塾・福沢諭吉・緒方洪庵・長与専斎・箕作秋坪
一身一家経済の由来
頼母子の金弐朱を返す
是《こ》れから私が一身一家の経済の事を陳《の》べましょう。凡《およ》そ世の中に何が怖いと云《いっ》ても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は相済《あいす》まぬ事と決定《けつじょう》すれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味を嘗《な》め尽《つく》して、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その艱難《かんなん》の中に、母の精神を以《もっ》て自《おのず》から私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に云付《いいつ》けられて金子《きんす》返済の使《つかい》をしたことがあります。その次第柄《しだいがら》は斯《こ》う云《い》うことです。天保七年、大阪に於《おい》て私共が亡父の不幸で母に従《したがっ》て故郷の中津《なかつ》に帰りましたとき、家の普請《ふしん》をするとか何とか云うに、勝手向《かってむき》は勿論《もちろん》不如意《ふにょい》ですから、人の世話で頼母子講《たのもしこう》を拵《こしら》えて一口《ひとくち》金二朱《きんにしゅ》ずつで何両とやら纏《まと》まった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持寄《もちよ》り、鬮引《くじびき》にて満座に至りて皆済《かいさい》になる仕組《しくみ》であるが、大家の人は二朱|計《ばか》りの金の為《た》めに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の掛金《かけきん》を出したまゝに手を引く者がある。之《これ》を掛棄《かけすて》と云います。その実は講主が人に金を唯《ただ》貰うような事なれども、一般の風俗で左《さ》まで世間に怪しむ者もない。所が福澤の頼母子《たのもし》に大阪屋《おおさかや》五郎兵衛《ごろうべえ》と云う廻船屋《かいせんや》が一口二朱を掛棄にしたそうです。勿論《もちろん》私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき或日《あるひ》母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に済《す》まぬ。武家が町人から金を恵まれて夫《そ》れを唯《ただ》貰うて黙《だまっ》て居ることは出来ません。疾《と》うから返したい/\と思ては居たがドウも爾《そ》う行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に持《もっ》て行《いっ》て厚《あつ》う礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋《おおさかや》に参《まいっ》て金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済など却《かえっ》て痛入《いたみい》ります。最早《もは》や古い事です。決してそんな御心配には及びませんと云《いっ》て頻《しき》りに辞退すれども、私は母の云《い》うことを聞《きい》て居るから、是非《ぜひ》渡さねばならぬと、互《たがい》に押し返して口喧嘩のように争うて、金を置《おい》て帰《かえっ》たことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に云付《いいつ》けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、豊前《ぶぜん》中津《なかつ》下小路《しもこうじ》の西南の角屋敷、大阪屋|五郎兵衛《ごろべえ》の家に行《いっ》て主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中に遺《のこっ》て居るから、金銭の事に就《つい》ては何としても大胆な横着な挙動は出来られません。
金がなければ出来る時まで待つ
ソレから段々成長して、中津《なかつ》に居る間は漢学修業の傍《かたわら》に内職のような事をして多少でも家の活計を助け、畑もすれば米も搗《つ》き飯も炊き、鄙事《ひじ》多能《たのう》、あらん限りの辛苦《しんく》して貧小士族の家に居り、年二十一のとき始めて長崎に行《いっ》て、勿論《もちろん》学費のあろう訳《わ》けもない、寺の留守番をしたり砲術家の食客《しょっかく》になったりして、不自由ながら蘭学を学んで、その後大阪に出て、大阪の緒方《おがた》先生の塾に修業中も、相替《あいかわ》らず金の事は恐ろしくて唯《ただ》の一度でも他人に借りたことはない。人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。当然《あたりまえ》のことで分《かわ》り切《きっ》て居るから、その返済する金が出来る位ならば、出来る時節まで待《まっ》て居て借金はしないと、斯《こ》う覚悟を極《き》めて、ソコで二朱や一分は扨《さて》置き、百文《ひゃくもん》の銭でも人に借りたことはない。チャンと自分の金の出来るまで待て居る。夫《そ》れから又私は質《しち》に置《おい》たことがない。着物は塾に居るときも故郷の母が夏冬《なつふゆ》手織《ており》木綿《もめん》の品を送《おくっ》て呉《く》れましたが、ソレを質に置くと云《い》えば何時か一度は請還《うけかえ》さなければならぬ。請還す金があるならその金の出来るまで待て居るが宜《よ》いと斯う思うから、金の入用はあっても只《ただ》の一度も質に入れたことがない。けれどもいよ/\金に迫《せまっ》て如何《どう》してもなくてならぬと云うときか、恥かしい事だが酒が飲みたくて堪《たま》らないと云うようなことがあれば、思切《おもいきっ》てその着物を売《うっ》て仕舞《しま》います。例えばその時に浴衣一枚を質に入れゝば弐朱《にしゅ》貸して呉れる、之《これ》を手離して売ると云えば弐朱と弐百文になるから売ることにすると云《い》うような経済法にして、且《か》つ又《また》私は写本で銭を取ることもしない。大事な修業の身を以《もっ》て銭の為《た》めに時を費すは勿体《もったい》ない、吾身《わがみ》の為めには一刻千金の時である、金がなければ唯《ただ》使わぬと覚悟を定《き》めて、大阪に居る間とう/\一銭の金も借用したことなくして、その後江戸に来ても同様、仮初《かりそめ》にも人に借用したことはない。折節《おりふし》自分で想像しては唯《ただ》怖くて堪《たま》らない、借金が出来て人から催促されたら如何《どう》だろう、世間の人、朋友の中にも毎度ある話だ、借金が出来て返さなければならぬと云《いっ》て、此方《こっち》から借りては彼方《あっち》に返し、又彼方から借りては此方に返すと云う者があるが、私は少しも感服しない。誠に気の済まぬ話で、金を借りて返さなくてならぬなんて嘸《さぞ》忙しい事であろう、能《よ》くもアレで一日でも半日でも安《やす》んじて居られたものだと思うて、殆《ほと》んど推量が出来ない。一口《ひとくち》に云えば私は借金の事に就《つい》て大の臆病者で、少しも勇気がない。人に金を借用してその催促に逢うて返すことが出来ないと云うときの心配は、恰《あたか》も白刃《はくじん》を以《もっ》て後ろから追蒐《おっか》けられるような心地《こころもち》がするだろうと思います。
駕籠に乗らず下駄、傘を買う
ソコで私が金を大事にする心掛けの事実に現われた例を申せば、江戸に参《まいっ》てから下谷《したや》練塀小路《ねりべいこうじ》の大槻俊斎《おおつきしゅんさい》先生の塾に朋友があって、私はその時|鉄砲洲《てっぽうず》に居たが、その朋友の処へ話に行《いっ》て、夜になって練塀小路を出掛けて、和泉橋《いずみばし》の処に来ると雨が降出《ふりだ》した。こりゃドウも困《こまっ》たことが出来た、迚《とて》も鉄砲洲までは行かれないと思うと、和泉橋の側《わき》に辻|駕籠《かご》が居たから、その駕籠屋に鉄砲洲まで幾らで行くかと聞たら、三|朱《しゅ》だと云う。ドウも三朱と云う金を出してこの駕籠に乗るは無益だ、此方は足がある。ソレは乗らぬことにして、その少し先《さ》きに下駄屋が見えるから、下駄屋へ寄《よっ》て下駄一足に傘一本|買《かっ》て両方で二|朱《しゅ》余り、三朱出ない。夫《そ》れから雪駄を懐《ふところ》に入れて、下駄を穿《はい》て傘をさして鉄砲洲《てっぽうず》まで帰《かえっ》て来た。デその途中私は独《ひと》り首肯《うなず》き、この下駄と傘が又役に立つ、駕籠に乗《のっ》たって何も後に残るものはない、こんな処が慎《つつし》むべきことだと思《おもっ》たことがあります、マアその位《くらい》に注意して居たから、外《ほか》は推《お》して知るべし、一切《いっさい》無駄な金を使《つかっ》たことがない。紙入《かみいれ》に金を入れて置く、ソレは二|分《ぶ》か三分か入れてある、入れてあるけれども何時《いつ》まで経《たっ》てもその金のなくなったことがない。酒は固《もと》より好きだから朋友と酒を飲みに行くことはある、ソンな時には金も入りますが、唯《ただ》独りでブラリと料理茶屋に這入《はいっ》て酒を飲むなぞと云《い》うことは仮初《かりそめ》にもしたことがない。ソレ程に私が金を大事にするから、又同時に人の金も決して貪《むさぼ》らない。ソリャ以前奥平家に対して朝鮮人を気取たのは別な話にして、その外と云うのは決して金は貪らないと、自身独立、自力自活と覚悟を極《き》めました。
事変の当日、約束の金を渡す
ソコで以《もっ》て慶応三年、即《すなわ》ち王政維新の前年の冬、芝《しば》新銭座《しんせんざ》に有馬《ありま》家(大名)の中屋敷が四百坪ばかりあるその屋敷を私が買いました。徳川の昔からの法律に依《よ》ると、武家屋敷は換え屋敷を許しても売買は許さないと云うのが掟であった。所が徳川もその末年になると様々な根本的改革と云うような事が行われて、武家屋敷でも代金を以《もっ》て売買勝手次第と云《い》うことになって、新銭座《しんせんざ》の有馬《ありま》の中屋敷が売物になると人の話を聞《きい》て、同じ新銭座住居の木村摂津守《きむらせっつのかみ》の用人|大橋栄次《おおはしえいじ》と云う人に周旋を頼んで、その有馬屋敷を買うことに約束して、価《あたい》は三百五十五両、その時の事だから買うと云《いっ》た所が、武家と武家との間で手金だの証書取換せなどゝ云うことのあろう訳《わ》けはない、唯《ただ》売りましょう然《しか》らば則《すなわ》ち買いましょうと云う丈《だ》けの話で約束が出来て、その金の受取渡しは何時《いつ》だと云うと、十二月二十五日に金を相渡し申す、請取ろうと、チャンと約束が出来て居て、夫《そ》れから私はその前日、三百五十五両の金を揃《そろ》えて風呂敷に包んで、翌早朝新銭座の木村の屋敷に行《いっ》て見ると、門が締《しまっ》て潜戸《くぐりど》まで鎖してある。夫《そ》れから門番に、此処《ここ》を明けて呉《く》れ、何で締めて置くかと云うと、「イーエ此処は明けられません。「明けられませんたって福澤だと云うのは、私は亜米利加《アメリカ》行の由縁で、木村家には常に出入《しゅつにゅう》して家の者のようにして居たから、門番も福澤と聞《きい》て潜戸を明けて呉れたは呉れたが、何だか門前が騒々しい、ドタバタ遣《やっ》て居る。何事か知らんと思て南の方を見ると、真黒な煙が立て居る。ソレで木村の玄関に上《あがっ》て大橋に遇《あっ》て、大変騒々しいが何だと云うと、大橋がヒソ/\して、「お前さんは何も知らぬか、大変な事が出来ました、大騒動だ、酒井《さかい》の人数が三田《みた》の薩州の屋敷を焼払おうと云《い》う、ドウもそりゃ大騒動、戦争で御座《ござ》ると云うから、私も驚いて、ソリャ少しも知らなかった、成程ドウも容易ならぬ形勢だが、夫《そ》れは夫れとして、時にあの屋敷の金を持《もっ》て来たから渡してお呉《く》んなさいと云うと、大橋が、途方もない、屋敷どころの話じゃない、何の事だ、モウこりゃ江戸中の屋敷が一銭の価《あたい》なしだ、ソレを屋敷を買うなんてソンな馬鹿らしい事は一切|罷《や》めだ、マアそんな事を為《し》なさるなと云《いっ》て取合《とりあわ》ぬから、私は不承知だ。ソリャ爾《そ》うでない、今日|渡《わたす》と云う約束だからこの金は渡さなくてはならぬと云うと、大橋《おおはし》は脇の方に向《むい》て、「約束したからと云て時勢に依《よっ》たものだ、この大変な騒動中に屋敷を買うと云うような馬鹿気《ばかげ》たことがあるものか。仮令《たと》い今買えばと云ても、三百五十五両を半価にしろと云えば半価にするに違いない、只《ただ》の百両でも悦《よろこ》んで売るだろう、兎《と》に角《かく》に見合せだ、罷《や》めだ/\と云て相手にならぬから、私は押返して、「イヤそれは出来ません。大橋さん、能《よ》くお聞きなさい。先達《せんだって》これを有馬から買おうと云うときに、何と貴方は約束なすったか、只十二月の廿五日|即《すなわ》ち今日、金を渡そう、受取ろうと、ソレより外《ほか》に何にも約束はなかった。若《も》し万が一、世の中に変乱があれば破約する、その価を半分にすると云う言葉が、約束の中にあるかないかと云うに、そんな約束はないではないか。仮令《たと》い約条書がなかろうと、人と人と話したのが何寄《なにより》の証拠だ、売買の約束をした以上は当然《あたりまえ》に金を払わぬこそ大きな間近いだ、何でも払わんければならぬ。加之《しかのみ》ならず、マダ私が云《い》うことがある。若《も》し大橋《おおはし》さんの言う通りにこの三百五十五両を半価にせよとか百両にせよとか云《い》えば、時節柄|有馬《ありま》家では承知するであろう。ソコで私が三百五十五両の物を百両に買《かっ》たと斯《こ》うした所で、この変乱がどんなになるか分《わか》らない。今あの通り酒井《さかい》の人数が三田《みた》の薩州屋敷を焼払《やきはらっ》て居るが、是《こ》れが何でもない事で天下|奉平《たいへい》、安全の世の中になるまいものでもない。扨《さて》いよ/\天下泰平になって、私が彼《か》の買屋敷の内に住《すま》い込んで居る。スルと有馬の家来も大勢あるから、私の処の門前を通る度《たび》に睨《にら》んで通るだろう、彼の屋敷は三百五十五両の約束をしたが、金の請取渡《うけとりわた》しのその日に三田に大変乱があったその為《た》めに百両で売た、福澤は二百五十五両得をして、有馬家では二百五十五両損をしたと、通る度に睨んで通るに違いない。口に言わないでも心に爾《そ》う思《おもっ》て忌《いや》な顔をするに極《きまっ》て居る。私はソンな不愉快な屋敷に住もうと思わない。何は扨《さて》置き、構うことはない、ドウぞこの金を渡して下《く》ださい。皆無《かいむ》損をしても宜《よろ》しい。この金を唯《ただ》渡した計《ばか》りで、その屋敷に住まうどころではない、逃出して行くと云うような大騒動があるかも知れない。有ればあった時の話だ。人間世界の事は何が何やら分らない、確かに生きて居ると思う人が死んだりする。矧《いわ》んや金だ、渡さなければならぬと捩《ねじ》くれ込んで、到頭《とうとう》持《もっ》て行《いっ》て貰いました。爾《そ》う云《い》う訳《わ》けで誠に私が金と云うことに就《つい》て極《きわ》めて律義に正しく遣《やっ》て居たと云うのは、是《こ》れは矢張《やは》り昔の武家根性で、金銭の損得に心を動かすは卑劣だ、気が餒《す》えると云うような事を思《おもっ》たものと見えます。
子供の学資金を謝絶す
それに又《また》似寄《によっ》たことがある。明治の初年に横浜の或《あ》る豪商が学校を拵《こしら》えて、この慶應義塾の若い人を教師に頼んでその学校の始末をして居ました。爾《そ》うするとその主人は私に親《みず》から新塾に出張して監督をして貰いたいと云う意があるように見える。私の家にはそのとき男子が二人、娘が一人あって、兄が七歳《ななつ》に弟が五歳《いつつ》ぐらい。是れも追々成長するに違いない、成長すれば外国に遊学させたいと思《おもっ》て居る、所が世間一般の風を見るに、学者とか役人とか云う人が動《やや》もすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修業させることを祈《いのっ》て、ドウやら斯《こ》うやら周旋が行届《いきとどい》て目的を達すると獲物でもあったように悦ぶ者が多い。嗚呼《ああ》見苦しい事だ、自分の産んだ子ならば学問修業の為《た》めに洋行させるも宜《よろ》しいが、貧乏で出来なければ為《さ》せぬが宜《よろ》しい、夫《そ》れを乞食のように人に泣付《なきつい》て修業をさせて貰うとは扨《さて》も/\意気地のない奴共だと、心|窃《ひそか》に之《これ》を愍笑《びんしょう》して居ながら、私にも男子が二人《ふたり》ある、この子が十八、九歳にもなれば是非《ぜひ》とも外国に遣《や》らなければならぬが、先《さき》だつものは金だ、どうかしてその金を造り出したいと思えども、前途|甚《はなは》だ遥《はるか》なり、二人《ふたり》遣《やっ》て何年間の学費は中々の大金、自分の腕で出来ようか如何《どう》だろうか誠に覚束《おぼつか》ない、困《こまっ》たことだと常に心に思《おもっ》て居るから、敢《あえ》て愧《はじ》ることでもなし、颯々《さっさつ》と人に話して、金が欲しい、金が欲しい、ドウかして洋行をさせたい、今この子が七歳《ななつ》だ五歳《いつつ》だと云《い》うけれども、モウ十年|経《た》てば仕度《したく》をしなければならぬ、ドウもソレまでに金が出来れば宜《よ》いがと、人に話して居ると、誰かこの話を例の豪商にも告げた者があるか、或日《あるひ》私の処に来て商人の云うに、お前さんに彼《あ》の学校の監督をお頼み申したい、斯《か》く申すのは月に何百円とかその月給を上げるでもない、態々《わざわざ》月給と云《いっ》ては取りもしなかろうが、茲《ここ》に一案があります、外《ほか》ではない、お前さんの小供両人、彼《あ》のお坊ッちゃん両人を外国に遣《や》るその修業金になるべきものを今お渡し申すが如何《どう》だろう、此処《ここ》で今五千円か一万円ばかりの金をお前さんに渡す、所で今|要《い》らない金だからソレを何処《どこ》へか預けて置く、預けて置く中《うち》に小供衆が成長する、成長して外国に行こうと云うときには、その金も利倍増長して確かに立派な学費になって、不自由なく修業が出来ましょう、この御相談は如何《いかが》で御座《ござ》ると云《い》い出した。成程|是《こ》れは宜《い》い話で、此方《こっち》はモウ実に金に焦《こが》れて居るその最中に、二人の子供の洋行費が天から降《ふっ》て来たようなもので、即刻《そっこく》応と返辞《へんじ》をしなければならぬ処だが、私は考えました。待て霎時《しばし》、どうも爾《そ》うでない、抑《そもそ》も乃公《おれ》が彼《あ》の学校の監督をしないと云《い》うものは、為《し》ない所以《ゆえん》があって為《し》ないとチャンと説を極《き》めて居る。ソコで今金の話が出て来て、その金の声を聞き前説を変じて学校監督の需《もとめ》に応じようと云《い》えば、前に之《これ》を謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ今その金を請取《うけと》るのが間違いである。金の為《た》めに変説と云えば、金さえ見れば何でもすると斯《こ》う成らなければならぬ。是《こ》れは出来ない。且《か》つ又今日金の欲しいと云うのは何の為《た》めに欲しいかと云えば、小供の為《た》めだ。小供を外国で修業させて役に立つように為《し》よう、学者に為ようと云う目的であるが、子を学者にすると云う事が果して親の義務であるかないか、是《こ》れも考えて見なければならぬ。家に在る子は親の子に違《ちが》いない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。如何《どう》あっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果さないと云う理窟はない。親が自分に自《みず》から信じて心に決して居るその説を、子の為めに変じて進退すると云《いっ》ては、所謂《いわゆる》独立心の居処《いどころ》が分らなくなる。親子だと云ても、親は親、子は子だ。その子の為めに節《せつ》を屈して子に奉公しなければならぬと云うことはない。宜《よろ》しい、今後|若《も》し乃公《おれ》の子が金のない為《た》めに十分の教育を受けることが出来なければ、是《こ》れはその子の運命だ。幸《さいわい》にして金が出来れば教育して遣《や》る、出来なければ無学文盲のまゝにして打遣《うちやっ》て置くと、私の心に決断して、扨《さて》先方の人は誠に厚意を以《もっ》て話して呉《く》れたので、固《もと》より私の心事を知る訳《わ》けもないから、体能《ていよ》く礼を述べて断りましたが、その問答応接の間、私は眼前《がんぜん》に子供を見てその行末を思い、又|顧《かえり》みて自分の身を思い、一進一退これを決断するには随分《ずいぶん》心を悩ましました。その話は相済《あいす》み、その後も相替《あいかわ》らず真面目に家を治めて著書|飜訳《ほんやく》の事を勉《つと》めて居ると、存外に利益が多くて、マダその二人の小供が外国行の年頃にならぬ先きに金の方が出来たから、小供を後廻しにして中上川彦次郎《なかみがわひこじろう》を英国に遣《や》りました。彦次郎は私の為《た》めに只《たっ》た一人の甥で、彼方《あちら》も亦《また》只た一人の叔父さんで外《ほか》に叔父はない、私も亦《また》彦次郎の外に甥はないから、先《ま》ず親子のようなものです。彼《あ》れが三、四年も英国に居る間には随分金も費しましたが、ソレでも後の小供を修業に遣ると云う金はチャンと用意が出来て、二人とも亜米利加《アメリカ》に六年ばかり遣《やっ》て置きました。私は今思い出しても誠に宜《い》い心持がします。能《よ》くあの時に金を貰《もら》わなかった、貰えば生涯気掛りだが、宜《い》い事をしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉に瑾《きず》を付けなかったような心持がします。
乗船切符を偽らず
右様な大金の話でない、極々《ごくごく》些細の事でも一寸《ちょい》と胡麻化《ごまか》して貪《むさぼ》るようなことは私の虫が好かない。明治九年の春、私が長男|一太郎《いちたろう》と次男|捨次郎《すてじろう》と両人を連れて上方《かみがた》見物に行くとき、一は十二歳余り、捨は十歳余り、父子三人従者も何もなしに、横浜から三菱会社の郵便船に乗り、船賃は上等にて十円か十五円、規則の通りに払うて神戸に着船、金場小平次《きんばこへいじ》と云《い》う兼《かね》て懇意《こんい》の問屋に一泊、ソレから大阪、京都、奈良等、諸所見物して神戸に帰《かえっ》て来て、復《ま》た三菱の船に乗込むとき、問屋の番頭に頼んで乗船切符を買い、サア乗込みと云うときにその切符を請取《うけとっ》て見れば、大人の切符が一枚と子供の半札が二枚あるから、番頭を呼んで、「先刻申した通り切符は大人が二枚、小供が一枚の筈《はず》だ、何かの間違いであろう、替えて貰いたいと云うと、番頭は落付払《おちつきはら》い、「ナーニ間違いはありません。大きいお坊ッちゃんの御年《おとし》も御《お》誕生も聞きました。正味十二と二、三ヶ月、半札は当然《あたりまえ》です。規則には満十二歳以上なんて書《かい》てありますが、満十三、四歳まで大人の船賃を払う者は一人もありはしませんと云《い》うから、私は承知しない。「二、三ヶ月でも二、三日でも規則は規則だ、是非《ぜひ》規則通りに払うと云《い》うと、番頭も中々剛情で、ソンな馬鹿な事は致しませんと云《いっ》て議論のように威張《いば》るから、「何でも宜《よろ》しい。乃公《おれ》は乃公の金を出して払うものを払い、貴様には唯《ただ》その周旋を頼む丈《だ》けだ。何も云わずに呉《く》れろと申して、何円か金を渡して、乗船前、忙しい処に切符を取替えた事がある。是《こ》れは何も珍らしくない、買物の代を当然《あたりまえ》に払うまでの事だから、世間の人も左様《さよう》であろうと思うけれども、今日例えば汽車に乗《のっ》て見ると、青い切符を以《もっ》て一寸《ちょい》と上等に乗込む人もあるようだ。過日も横浜から例の青札《あおふだ》を以て上等に飛込み神奈川に上《あが》った奴がある。私は箱根帰りに丁度《ちょうど》その列車に乗て居て、ソット奴の手に握《にぎっ》てる中等切符を見て、扨々《さてさて》賤《いや》しい人物だと思いました。
本藩の扶持米を辞退す
是れまで申した所では何だか私が潔白な男のように見えるが、中々|爾《そ》うでない。この潔白な男が本藩の政庁に対しては不潔白とも卑劣とも名状すべからざる挙動《ふるまい》をして居ました。話は少々長いが、私が金銭の事に付き数年の間に豹変《ひょうへん》したその由来を語りましょう。王政維新のその時に、幕府から幕臣一般に三ヶ条の下問を発し、第一、王臣になるか、第二、幕臣になって静岡に行くか、第三、帰農して平に民になるかと云《いっ》て来たから、私は無論帰農しますと答えて、その時から大小を棄《す》てゝ丸腰になって仕舞《しま》い、ソコで是《こ》れまで幕府の家来になって居るとは云《い》いながら、奥平《おくだいら》からも扶持米《ふちまい》を貰《もらっ》て居たので、幕臣でありながら半《なか》ばは奥平家の藩臣である。然《しか》るに今度いよ/\帰農と云《い》えば、勿論《もちろん》幕府の物を貰う訳《わ》けもないから、同時に奥平家の方から貰《もらっ》て居る六人|扶持《ふち》か八人扶持の米も、御辞退申すと云《いっ》て返して仕舞《しま》いました、と申すはその時に私の生活はカツ/\出来るか出来ないかと云《い》う位であるが、併《しか》しドウかしたなら出来ないことはないと大凡《おおよ》その見込《みこみ》が付《つい》て居ました。前にも云う通り私は一体金の要《い》らない男で、一方では多少の著訳書を売《うっ》て利益を収め、又一方では頓《とん》と無駄な金を使わないから多少の貯蓄も出来て、赤貧ではない。是《こ》れから先《さ》き無病堅固にさえあれば、他人の世話にならずに衣食して行かれると考《かんがえ》を定めて、ソレで男らしく奥平家に対しても扶持方を辞退しました。スルと奥平の役人達は却《かえっ》て之《これ》を面白く思わぬ。「ソンナにしなくても宜《よ》い、是《こ》れまで通り遣《や》ろうと云《いい》て、その押問答がなか/\喧《やか》ましい。妙なもので、此方《こっち》が貰おうと云うときには容易に呉れぬものだが、要らないと云うと向うが頻《しき》りに強《し》うる。ソレで仕舞《しまい》には、ドウもお前は不親切だ、モウ一歩進めると藩主に対して薄情不忠な奴だと云うまでになって来た。夫《そ》れから此方も意地になって、「ソレなら戴きましょう。戴きましょうだが、毎月その扶持米を精《しら》げて貰《もら》いたい。モ一つ序《つい》でにその米を飯《めし》か粥に焚《たい》て貰いたい。イヤ毎月と云わずに毎日|貰《もら》いたい。都《すべ》ての失費は皆米の内で償《つぐの》いさえすれば宜《よ》いから爾《そ》うして貰いたい。ソレでドウだと申すに、御扶持《おふち》を貰わなければ不親切不忠と云《い》われる、不忠の罪を犯すまでにして御辞退申す程の考《かんがえ》はないから慎《つつし》んで戴きます。願の通りその御扶持|米《まい》が飯《めし》か粥になって来れば、私は新銭座《しんせんざ》私宅|近処《きんじょ》の乞食に触《ふれ》を出して、毎朝来い、喰《く》わして遣《や》ると申して、私が殿様から戴いた物を、私宅の門前に於《おい》て難渋者共に戴かせます積りですと云《い》うような乱暴な激論で、役人達も困《こまっ》たと見え、とう/\私の云《い》う通りに奥平藩の縁も切れて仕舞《しま》いました。
本藩に対してはその卑劣朝鮮人の如し
斯《こ》う云えば私が如何《いか》にも高尚廉潔の君子のように見えるが、この君子の前後を丸出しにすると実は大笑いの話だ。是《こ》れは私一人でない、同藩士も同じことだ。イヤ同藩士ばかりでない、日本国中の大名の家来は大抵《たいてい》皆同じことであろう。藩主から物を貰えば拝領と云《いっ》て、之《これ》に返礼する気はない。馳走《ちそう》になれば御酒《ごしゅ》下《くだ》されなんと云て、気の毒にも思わず唯《ただ》難有《ありがた》いと御|辞儀《じぎ》をするばかりで、その実は人間|相互《あいたが》いの附合《つきあ》いと思わぬから、金銭の事に就《つい》ても亦《また》その通りでなければならぬ。私が中津《なかつ》藩に対する筆法は、金の辞退どころか唯《ただ》取ること計《ばか》り考えて、何でも構わぬ、取れる丈《だ》け取れと云《い》う気で、一両でも十両でも旨《うま》く取出せば、何だか猟《かり》に行《いっ》て獲物《えもの》のあったような心持《こころもち》がする。拝借と云《いっ》て金を借りた以上は此方《こっち》のもので、返すと云う念は万々ない。仮初《かりそめ》にも自分の手に握れば、借りた金も貰《もらっ》た金も同じことで、後《あと》の事は少しも思わず、義理も廉恥《れんち》もないその有様《ありさま》は、今の朝鮮人が金を貪《むさぼ》ると何にも変《かわっ》たことはない。嘘も吐《つ》けば媚《こび》も献じ、散々《さんざん》なことをして、藩の物を只《ただ》取ろう/\とばかり考えて居たのは可笑《おか》しい。
百五十両を掠め去る
その二、三ヶ条を云えば、小幡《おばた》その外《ほか》の人が江戸に来て居て、私が一切《いっさい》引受けて世話をして居るときに、藩から勿論《もちろん》ソレに立行く丈《だ》けの金を呉《く》れよう訳《わ》けはない。ドウやら斯《こ》うやら種々様々に、私が有らん限りの才覚をして金を造《つくっ》た。例えば当時横浜に今のような欧字新聞がある、一週に一度ずつの発行、その新聞を取寄せて、ソレを飜訳《ほんやく》しては、佐賀藩の留守居《るすい》とか仙台藩の留守居とか、その外一、二藩もありました、ソンな人に話を付けて、ドウぞ飜訳を買《かっ》て貰いたいと云て多少の金にするような工風《くふう》をしたり、又は私が外国から持《もっ》て帰《かえっ》た原書の中の不用物を売《うっ》たりして金策をして居ましたが、何分|大勢《おおぜい》の書生の世話だからその位の事では迚《とて》も追付《おいつ》く訳けのものでない。所でその時江戸の藩邸に金のあることを聞込《ききこ》んだから、即案に宜《い》い加減な事を書立《かきた》て、何月何日頃何の事で自分の手に金の這入《はい》る約束があると云うような嘘を拵《こしら》えて、誠めかしく家老の処に行《いっ》て、散々御|辞儀《じぎ》をして、斯《こ》う/\云《い》う訳《わ》けですから暫時《ざんじ》百五十両|丈《だ》けの御振替《おふりかえ》を願いますと極《ごく》手軽に話をすると、家老は逸見志摩《へんみしま》と云う誠に正しい気の宜《い》い人で、暫時《ざんじ》のことならば拝借|仰付《おおせつ》けられても宜《よ》かろうと云うような曖昧な答をしたから、その笞を聞くや否《いな》やすぐにその次の元締役《もとじめやく》の奉行の処に行て、今|御家老《ごかろう》志摩殿に斯う云う話をした所が、貸して苦しくないと御聞済《おききずみ》になったから、今日その御金を請取《うけと》りたいと云うと、奉行は不審を抱《いだ》き、ソレは何時《いつ》の事だか知らぬがマダその筋《すじ》から御|沙汰《さた》にならぬと妙な顔色《かお》して居るから、仮令《たと》い御沙汰にならぬでもモウ事は済んで居ます、唯《ただ》金をさえ渡して下されば宜《よろ》しい、何も六《むず》かしい事はないと段々|説《とい》た、所が家老衆が爾《そ》う云《い》えば、御金のないことはない、余り不都合でもなかろうとその答も曖昧であったが、此方《こっち》はモウ済んだ事にして仕舞《しまっ》て、その足で又《また》その下役の元締|小吟味《こぎんみ》、是《こ》れが真実その金庫の鍵を持《もっ》て居る人であるその小吟味方の処へ行て、只《ただ》今金を出して貰《もら》いたい、斯う/\云う次第で決してお前さんの落度になりはしない、正当な手順で、僅《わず》か三ヶ月|経《た》てば私の手にちゃんと金が出来るからすぐに返上すると云て、何の事はない、疾雷《しつらい》耳を掩《おお》うに遑《いとま》あらず、役人と役人と評議相談のない間に、百五十両と云《い》う大金を掠《かす》めて持《もっ》て来たその時は、恰《あたか》も手に竜宮の珠《たま》を握りたるが如《ごと》くにして、且《かつ》つ[#「且《かつ》つ」はママ]その握《にぎっ》た珠を竜宮へ返《か》えそうなんと云う念は毛頭《もうとう》ない。誠に不埒《ふらち》な奴さ。夫《そ》れで以《もっ》て一年ばかり大《おおい》に楽をしたことがあります。
原書を名にして金を貪る
又《また》或《あ》る時、家老|奥平壱岐《おくだいらいき》の処に原書を持参して、御買上《おかいあげ》を願うと持込んだ所が、この家老は中々|黒人《くろうと》、その原書を見て云うに、是《こ》れは宜《よ》い原書だ、大層《たいそう》高価のものだろうと頻《しき》りに賞《ほ》めるから、此方《こっち》はチャンと向うの腹を知《しっ》て居る、有益な本で実価は安いなどと威張《いばっ》て出掛けると、ソレじゃ外《ほか》へ持て行けと云うに極《きまっ》て居るから、一番、その裏を掻《かい》て、「左様《さよう》です、原書は誠に必要な原書ですが、之《これ》を私が奥平様にお買上げを願うと云うのは、この代金を私が請取《うけとっ》て、その金は私が使《つかっ》て、爾《そ》うしてその御買上《おかいあげ》げに[#「御買上《おかいあげ》げに」はママ]なった原書を私が拝借しようと斯《こ》う云うので、正味を申せば私がマア金を唯《ただ》貰おうと云う策略でござる。斯《か》くの通り平たく心の実を明らさまに申上げるのだから、ドウかこの原書を名にして金を下さい。一口に申せば私は体の宜い乞食、お貰《もら》い見たようなものでござると打付《ぶっつ》けた所が、家老も仕方《しかた》がない、その訳《わ》けは、家老が以前に自分の持て居る原書一冊を奥平藩に二十何両かで売付けたことがあるその事を聞込《ききこ》んだから私が行《いっ》たので、若《も》しも否めばお前さんはドウだと暴れて遣《や》ろうと云う強身《つよみ》の伏線がある、丸で脅迫手段だから、家老も仕方なしに承知して、私も矢張《やは》りその原書を名にして先例に由《よ》り二十何両かの金を取《とっ》て、その内十五両を故郷の母の方に送《おくっ》て一時の窮を凌《しの》ぎました。
人間は社会の虫なり
と云《い》うような次第で、ソレはソレは卑劣とも何とも実に云《い》いようのない悪い事をして一寸《ちょい》とも愧《は》じない。仮初《かりそめ》にも是《こ》れはドウも有間敷《あるまじき》事《こと》だなんと思《おもっ》たことがない。取らないのは損だとばかり、猟《かり》に行けば雀を撃《うっ》たより雁を取《とっ》た方がエライと云う位の了簡で、旨《うま》く大金を掠《かす》め取れば心|窃《ひそか》に誇《ほこっ》て居るとは、実に浅ましい事であるのみならず、本来私の性質がソレ程卑劣とも思わない、随分《ずいぶん》家風の悪くない家に生れて、幼少の時から心正しき母に育てられて、苟《いやしく》も人に交《まじわっ》て貪《むさぼ》ることはしないと説を立てゝ居る者が、何故に藩庁に対してばかり斯《か》くまでに破廉恥《はれんち》なりしや、頓《とん》と訳《わ》けが分らぬ。シテ見ると人間と云う者はコリャ社会の虫に違いない。社会の時候が有りのまゝに続けば、その虫が虫を産んで際限のない所に、この蛆虫《うじむし》即《すなわ》ち習慣の奴隷が、不図《ふと》面目を改めると云うには、社会全体に大なる変革激動がなければならぬと思われる。ソコで三百年の幕府が潰れたと云えば、是《こ》れは日本社会の大変革で、随分《ずいぶん》私の一身も始めて夢が醒《さ》めて、藩庁に対する挙動《きょどう》も改まらなければならぬ。是れまで自分が藩庁に向《むかっ》て愧《は》ずべき事を犯したのは、畢竟《ひっきょう》藩の殿様など云《い》う者を崇《あが》め奉《たてまつ》って、その極度はその人を人間以上の人と思い、その財産を天然の公共物と思い、知らず識《し》らず自《みず》から鄙劣《ひれつ》に陥りしことなるが、是《こ》れからは藩主も平等の人間なりと一念こゝに発起して、この平等の主義からして物を貪《むさぼ》るは男子の事に非《あら》ずと云う考えが浮かんだのだろうと思われる。その時には特に考えたこともない、説を付けたこともないが、私の心の変化は恐ろしい。何故《なにゆえ》に以前藩に対してあれほど卑劣な男が後に至《いたっ》ては折角《せっかく》呉《く》れようと云う扶持方《ふちかた》をも一酷《いっこく》に辞退したか、辞退しなくっても世間に笑う者もないのに、打《うっ》て変《かわっ》た人物になって、この間まで丸で朝鮮人見たような奴が、恐ろしい権幕を以《もっ》て呉れる物を刎返《はねかえ》して、伯夷《はくい》、叔斉《しゅくせい》のような高潔の士人に変化《へんか》したとは、何と激変ではあるまいか。他人の話ではない、私が自分で自分を怪しむことであるが、畢竟《ひっきょう》封建制度の中央政府を倒してその倒るゝと共に個人の奴隷心を一掃したと云わなければならぬ。
支那の文明、望むべからず
之《これ》を大きく論ずれば、彼《か》の支那の事だ、支那の今日の有様を見るに、何としても満清《まんしん》政府をあの儘《まま》に存じて置《おい》て、支那人を文明開化に導くなんと云うことは、コリや真実無益な話だ。何は扨《さて》置き老大政府を根絶やしにして仕舞《しまっ》て、ソレから組立てたらば人心こゝに一変することもあろう。政府に如何《いか》なるエライ人物が出ようとも、百の李鴻章《りこうしょう》が出て来たって何にも出来はしない。その人心を新《あらた》にして国を文明にしようとならば、何は兎《と》もあれ、試《こころ》みに中央政所を潰すより外《ほか》に妙策はなかろう。之《これ》を潰して果して日本の王政維新のように旨《うま》く参るか参らぬか、屹《きっ》と請合は難《かた》けれども、一国独立の為《た》めとあれば試《こころ》みにも政府を倒すに会釈はあるまい、国の政府か、政府の国か、このくらいの事は支那人にも分る筈《はず》と思う。
旧藩の平穏は自から原因あり
私の経済話から段々|枝《えだ》がさいて長くなりましたが、序《ついで》ながら中津藩の事に就《つい》て、モ少し云う事があります。前に申す通り私は勤王佐幕など云う天下の政治論に少しも関係しないのみならず、奥平藩の藩政にまでも至極《しごく》淡泊にあったと云うその為《た》めに、茲《ここ》に随分《ずいぶん》心に快いことがある、と云うのはあの王政維新の改革が行われたときに、諸藩の事情を察するに、勤王佐幕の議論が盛《さかん》で、動《やや》もすれば旧大臣等に腹を切らせるとか、大英断を以《もっ》て藩政改革とか云う為めに、一藩中に争論が起り、党派が分れて血を流すと云《い》うようなことは、何《いず》れの藩も十中八、九、皆ソレであったその時に、若《も》し私に政治上の功名心があって、藩に行《いっ》て佐幕とか勤王とか何か云出《いいだ》せば、必ず一騒動を起すに違いない。所が私は黙《だまっ》て居て一寸《ちょいと》も発言せず、人が噂《うわさ》をすれば、爾《そ》う喧《やかま》しく云わんでも宜《い》い、棄《す》てゝ置きなさいと云うように、極《ごく》淡泊にして居たから、中津《なかつ》の藩中が誠に静で、人殺しも何もなかったのはソレが為《た》めだろうと思います。人殺しどころか人を黜陟《ちっちょく》したと云うこともなかった。
藩の重役に因循姑息説を説く
ソコで私が明治三年、中津に母を迎えに行《いっ》たことがある、所がその時は藩政も大いに変《かわっ》て居まして、福澤が東京から来たから話を聞こうではないかと云うようなことになって、家老の邸《やしき》に呼ばれて行た、所が藩の役人と云う有らん限りの役人重役が皆|其処《そこ》に出て居る。案ずるに、私が行たらば嘸《さぞ》ドウも大変な事を云うだろうと待受《まちう》けて居たに違いない。夫《そ》れから私が其処に出席すると、重役達の云うに、藩はドウしたら宜《よ》かろうか、方向に迷《まよっ》て五里霧中なんかんと、何か心配そうに話すから、私は之《これ》に答えて、イヤもう是《こ》れはドウするにも及ばぬことだ、能《よ》く諸藩では或《あるい》は禄を平均すると云うような事で大分|騒々《そうぞう》しいが、私の考えでは何にもせずに今日のこの儘《まま》で、千|石《こく》取《とっ》て居る人は千石、百石取て居る人は百石、大平無事に悠々《ゆうゆう》として居るが上策だと、その説を詳《つまびらか》に陳べると、列座の役人は大層驚くと同時に、是《こ》れは/\穏かなことを云うもの哉《かな》と云わぬばかりの趣で、大分顔色が宜い。
武器売却を勧む
夫《そ》れから段々話が進んで来た所で、私は一つ注文を出した。今|云《い》う通り禄も身分も元の通りにして置くが宜《よ》かろう、ソレは宜《よろ》しいが、茲《ここ》に一つ忠告したいことがある。今この中津《なかつ》藩には小銃もあれば大砲もあり、武を以《もっ》て国を立てようと云うその趣《おもむき》はチャンと見えて居るが、併《しか》し今の藩士とこの藩に在る武器で以て果して戦争が出来るかドウか、私はドウも出来なかろうと思う、左《さ》れば今日|只《ただ》今長州の人がズッと暴れ込めば長州に従わなければならぬ、又薩州の兵が攻来《せめく》れば之《これ》にも抵抗することが出来ないから薩州に従わなければならぬ、誠に心配な話である、之を私が言葉を設けて評すれば、弱藩|罪《つみ》なし武器|災《わざわい》をなすと云わねばならぬ、ダカラ寧《いっ》そこの鉄砲を皆|売《うっ》て仕舞《しま》いたい、見れば大砲は何《いず》れもクルップだ、これを売れば三千五千|或《あるい》は一万円になるかも知れぬから、一切《いっさい》売て仕舞《しまっ》て昔の琉球見たようになって仕舞うが宜《よ》い、爾《そ》うして置《おい》て長州から政めて来たら、ヘイ/\、又薩摩から遣《やっ》て来たら、ヘイ/\、斯《こ》う為《し》ようとか、アヽ為ようとか云えば、ドウか長州に行《いっ》て直《じか》に話をして下さい、又長州ならドウか薩州に行て直談《じきだん》を頼むと云て、一切の面倒を他に嫁して、此方《こっち》はドウでも宜いと、斯《こ》う云《い》う仕向けが宜《よ》かろう、そうした所で殺しもしなければ捕縛して行きもしないから爾《そ》う云うようにしたい、そうして一方に於《おい》てはドウしてもこの世の中は文明開化になるに極《きまっ》てるから、学校を拵《こしら》えて文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせると云う方針を執《と》るが一番大事である、扨《さて》爾う云う方針を執るとして、武器を廃して仕舞《しま》えば、余り割合が宜過《よす》ぎるようだが、ソコには斯う云うことがある、今私は東京の事情を察するに、新政府は陸海軍を大に改革しようとして金がなくて困《こまっ》て居る、ソコで一片の願書なり届書なり認《したた》めて出して見るが宜《よろ》しい、その次第はこの中津《なかつ》藩は武備を廃したる為《た》めに年々何万円と云う余計な金がある、この金を納めましょうから政府の方でドウでも為《な》すって下さいと斯う云《い》えば、海陸軍では大に悦《よろこ》ぶ、政府の身になって見れば、この諸藩三百の大名が各々《おのおの》色変りの武器を作り色変りの兵を備えて置くその始末に堪《た》まるものじゃない、ドウしたッて一様にしたいと云うのは、コリャ政府の政略に於《おい》て有るに極《きまっ》た訳《わ》けではないか、然《しか》るに此処《ここ》ではクルップの鉄砲だ、隣ではアームストロングの大砲だ、イヤ彼処《あすこ》では仏蘭西《フランス》の小銃、此方《こっち》は和蘭《オランダ》から昔《むか》し輸入したゲベルを持て居ると云うような、日本国中千種万様の兵備では、政府に於《おい》てイザ事と云《いっ》ても戦争が出来そうにもしない、ソレよりかその金を納むるが宜《よ》い、爾うすれば独り政府が悦《よろこ》ぶのみならずして、中津藩も誠に安楽になる、所謂《いわゆる》一挙両全の策であるから爾う遣りなさいと云た。
武士の丸腰
所がソレには大反対さ。兵事係の役人が三人も四人も居る中で、菅沼新五右衛門《すがぬましんごえもん》と云《い》う人などは大反対、満坐一致で、ソレは出来ませぬ、何の事はない、武士に向《むかっ》て丸腰になれと云うような説で、ソレ計《ばか》りは何としても出来ないと云うから、私は深く論じもせず、出来なければ為《し》なさるな、ドウでも宜《よろ》しい、御勝手になさい、只《ただ》私は爾《そ》うしたらば便利だと思う丈《だ》けの話だからと云《いっ》て、ソレ切《き》り罷《や》めになって仕舞《しま》いましたが、併《しか》し私はその政治論に熱しなかったと云う為《た》めに、中津の藩士が怪我を為なかったと云うことは、是《こ》れは事実に於《おい》て間違いないことで、自《おのず》から藩の為めに功徳になって居ましょう。その上に中津《なかつ》藩では減禄をしないのみならず、平均した所で加増した者がある。何でも大変に割合が宜《よ》かった。例えば私の妻の里などは二百五十石|取《とっ》て居て三千円ばかりの公債証書を貰《もら》い、今泉《いまいずみ》(秀太郎氏なり)は私の妻の姉の家で三百五十石か取《とっ》て居たが四千円も貰《もら》いましたろう。けれども藩士の禄券と云うものは悪銭身に付《つ》かずと云《い》うような訳《わ》けで、終《つい》にはなくして仕舞《しま》って何もありはしない。兎《と》に角《かく》に中津《なかつ》藩の穏かであったと云うことは間違いない話です。
商売の実地を知らず
話は以前《もと》に立還《たちかえっ》て復《ま》た経済を語りましょう。私は金銭の事を至極《しごく》大切にするが、商売は甚《はなは》だ不得手である、その不得手とは敢《あえ》て商売の趣意を知らぬではない、その道理は一通《ひととお》り心得《こころえ》て居る積《つも》りだが、自分に手を着けて売買《ばいばい》貸借《かしかり》は何分ウルサクて面倒臭くて遣《や》る気がない。且《か》つむかしの士族書生の気風として、利を貪《むさぼ》るは君子の事に非《あら》ずなんと云うことが脳《あたま》に染込《しみこ》んで、商売は愧《はず》かしいような心持《こころもち》がして、是《こ》れも自《おのず》から身に着き纏《まと》うて居るでしょう。既《すで》に江戸に始めて来たとき、同藩の先輩|岡見《おかみ》彦曹[#「曹」に「〔三〕」の注記]と云う人が、和蘭《オランダ》辞書の原書を飜刻《ほんこく》して一冊の代価五両、その時には安いもので随分望む人もある中に、私が世話をして朋友に一冊買わせて、その代金五両を岡見に持《もっ》て行くと、主人が金一分、紙に包んで呉《く》れたから驚いた、是れは何の事か少しも分らん、本の世話をして売《うっ》たその礼とは呆れた話だ、畢竟《ひっきょう》主人が少年書生と見縊《みくびっ》て金を恵む了簡であろう、無礼な事をするもの哉《かな》と少し心に立腹して、真面目になって争う事があると云うような次第で、物の売買に手数料などゝ云うことは町人共の話として、書生の身には夢ほども知らない。
火斗を買て貨幣法の間違いを知る
左《さ》れども是等《これら》は唯書生の一身に直接して然《しか》るのみ。扨《さて》経済の理窟に於《おい》ては当時町人共の知らぬ処に考《かんがえ》の届くことがある。或《あ》るとき私が鍛冶橋《かじばし》外《そと》の金物屋に行《いっ》て台火斗《だいじゅうのう》を買《かっ》て、価が十二|匁《もんめ》と云うその時、どう云う訳《わ》けだか供の者に銭を持たせて、十二匁なれば凡《およ》そ一貫二、三百文になるから、その銭を店の者に渡したときに、私が不図《ふと》心付た。この銭の目方は凡《およ》そ七、八百目から一貫目もある、然《しか》るに銭の代りに請取《うけとっ》た台火斗は二、三百目しかない、銭も火斗も同じ銅でありながら、通用の貨幣は安くて売買の品は高い、是《こ》れこそ経済法の大間違いだ、こんな事が永く続けば銭を鋳潰して台火斗を作るが利益だ、何としても日本の銭の価は騰貴するに違いないと説を定めて、一歩を進めて金貨と銀貨との目方、性合を比較して見て、西洋の金一銀十五の割合にすれば、日本の貨幣法は間違いも間違いか大間違いで、私が首唱して云うにも及ばず、外国の商人は開国その時から大判小判の輸出で利を占めて居るとの風聞。ソレから私も知《しっ》て居る金持の人に頻《しき》りに勧めて金貨を買わせた事があるが、是《こ》れも唯《ただ》人に話をする計《ばか》りで自分には何にも為《し》ようとも思付《おもいつ》かぬ。唯《ただ》私の覚えて居るのは安政六年の冬、米国行の前、或《ある》人に金銀の話をして、翌年夏、帰国して見れば、その人が大《おおい》に利益を得た様子で、御礼《おれい》に進上すると云《いっ》て、一朱銀の数も計《かぞ》えず私の片手に山盛り一杯金を呉《く》れたから、深く礼を云《い》うにも及ばず、何は扨《さて》置き早速《さっそく》朋友を連れて築地の料理茶屋に行《いっ》て、思うさま酒を飲ませたことがある。
簿記法を飜訳して簿記を見るに面倒なり
先《ま》ずこの位なことで、その癖私は維新後早く帳合之法《ちょうあいのほう》と云う簿記法の書を飜訳《ほんやく》して、今日世の中にある簿記の書は皆私の訳例に傚《なら》うて書《かい》たものである。ダカラ私は簿記の黒人《くろうと》でなければならぬ、所が読書家の考《かんがえ》と商売人の考とは別のものと見えて、私はこの簿記法を実地に活用することが出来ぬのみか、他人の記した帳簿を見ても甚《はなは》だ受取が悪い。ウンと考えれば固《もと》より分らぬことはない、屹《きっ》と分るけれども、唯面倒臭くてソンな事をして居る気がないから、塾の会計とか新聞社の勘定とか、何か入組んだ金の事はみんな人任せにして、自分は唯その総体の締《しめ》て何々と云う数を見る計《ばか》り。こんな事で商売の出来ないのは私も知《しっ》て居る。例えば塾の書生などが学費金を持《もっ》て来て、毎月入用だけ請取りたいから預けて置きたいと云《い》う者がある。今の貴族院議員の滝口吉良《たきぐちよしろう》なども、先年書生の時はその中の一人で、何百円か私の処に預けてあったが、私はその金をチャンと箪笥の袖斗《ひきだし》に入れて置《おい》て、毎月取りに来れば十円でも十五円でも入用だけ渡して、その残りは又紙に包んで仕舞《しまっ》て置く。その金を銀行に預けて如何《どう》すれば便利だと云《い》うことを知るまい事か、百も承知で心に知《しっ》て居ながら、手で為《す》ることが出来ない。銀行に預けるは扨《さて》置き、その預《あずけ》た紙幣の大小を一寸《ちょいと》私に取替えて本《もと》の姿を変えることも気が済《す》まない。如何《どう》でも是《こ》れは持《もっ》て生れた藩士の根性か、然《しか》らざれば書生の机の抽斗《ひきだし》の会計法でしょう。
借用証書があらば百万円遣ろう
ソコで或《ある》時例の金融家のエライ人が私方に来て、何か金の話になって、千種万様、実に目に染《し》みるような混雑な事を云うから、扨《さ》て/\如何《どう》もウルサイ事だ、この金を彼方《あっち》に向けて、彼《あ》の金は此方《こっち》に返《か》えすと云う話であるが、人に貸す金があれば借りなくても宜《よ》さそうなものだ、商売人は人の金を借りて商売すると云うことは私も能《よ》く知て居るが、苟《いやしく》も人に金を貸すと云うことは余《あまっ》た金があるから貸すのだ、仮令《たと》い商売人でも貸す金があるなら成《な》る丈《た》けソレを自分に運転して、他人の金をば成る丈《た》け借用しないようにするのが本意ではないか、然《しか》るに自分に資本を持て居ながら、態々《わざわざ》人に借用とは入らざる事をしたものだ、余計な苦労を求めるようなものだと云うと、その人が大《おおい》に笑《わらっ》て、迂闊《うかつ》千万、途方もない事を云う、商売人と云うものは入組《いりく》んで/\滅茶々々《めちゃめちゃ》になったと云《い》うその間に、又種々様々の面白いことのあるもので、そんな馬鹿な事が出来るものか、啻《ただ》に商売人に眼らず、凡《およ》そ人の金を借用せずに世の中を渡ると云うことが出来るものか、ソンな人が何処《どこ》に在るかと云《いっ》て私を冷却するから、私はその時始めてヒョイと思付《おもいつい》た。今御話を聞けば、世の中に借金しない者が何処に在るかと云うが、その人は今こゝに居ます。私は是《こ》れまで只《ただ》の一度も人の金を借りたことがない。「そんな馬鹿な事を云いなさるな。「イヤ如何《どう》してもない。生れて五十年(是れは十四、五年前の話)人の金を一銭でも借りたことはない。ソレが嘘ならば、試《こころみ》に私の印形の据《すわっ》て居るものとは云わない、反古《ほご》でも何でも宜《よろ》しい、ソレを捜して持《もっ》て来て御覧。私が百万円で買おう。ドウしたってありはしない。日本国中に福澤の書《かい》た借用証文と云うものはソレこそ有る気遣いはないが如何《どう》だ、と云うような訳《わ》けで、その時に私も始めて思い出したが、私は生れてこの方《かた》遂《つい》ぞ金を借りたことがない。是れはマア私の眼から見れば尋常一様の事と思うけれども、世間の人が見たらば甚《はなは》だ尋常一様でないのかも知れぬ。
金を預けるも面倒なり
ソレで私は今でも多少の財産を持て居る、持て居たけれども私ところの会計と云うものは至極《しごく》簡単で、少しも入込んだことはない。この金を誰に返《か》えさなければならぬ、之《これ》を此方《こちら》に振向けなければならぬと云うような事は絶えてない。ソレで僅《わずか》か[#「僅《わずか》か」はママ]ばかり二百円とか三百円とか云《い》う金が、手元にあってもなくても構わない、ソレを銀行に預けて、必要のとき小切手で払いをすれば利息が徳になると云う、ソレは私も能《よ》く知《しっ》て居て、世間一体そう云う風《ふう》になりたいとは思えども、扨《さて》自分には小面倒《こめんどう》臭い、ソンな事にドタバタするよりか、金は金で仕舞《しまっ》て置《おい》て、払うときにはその紙幣《さつ》を計《かぞ》えて渡して遣《や》ると、斯《こ》う云う趣向にして、私も家内もその通りな考えで、真実封建武士の机の抽斗《ひきだし》の会計と云うことになって、その話になると丸で別世界のようで、文明流の金融法は私の家に這入《はい》りません。
仮初にも愚痴を云わず
夫《そ》れからして、世間の人が私に対して推察する所を、私が又推察して見るに、ドウも世人の思う所は決して無理でない、と云うのは私が若い時から困《こまっ》たと云うことを一言《いちごん》でも云うたことがない、誠に家事多端で金の入用が多くて困るとか、今歳《ことし》は斯う云う不時な事があって困却致すとか云うような事を、仮初《かりそめ》にも口外したことがない、私の眼には世間が可笑《おか》しく見える、世間多数の人が動《やや》もすれば貧乏で困る、金が不自由だ、無力だ、不如意だ、なんかんと愚痴をこぼすのは、或《あるい》は金を貸して貰《もら》いたいと云うような意味で言うのか、但《ただ》しは洒落《しゃれ》に言うのか、飾りに言うのか、私の眼から見れば何の事だか少しも訳《わ》けが分らない、自分の身に金があろうとなかろうと敢《あえ》て他人に関係したことでない、自分一身の利害を下らなく人に語るのは独語《ひとりごと》を言うようなもので、こんな馬鹿気《ばかげ》た事はない、私の流儀にすれば金がなければ使わない、有《あっ》ても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切《いっさい》世間の人のお世話に相成《あいな》らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗《かつ》て人に相談しようとも思わなければ、人に喙《くちばし》を容《い》れさせようとも思わぬ、貧富苦楽、共に独立独歩、ドンな事があっても、一寸《ちょいと》でも困《こまっ》たなんて泣言を云《い》わずに何時も悠々として居るから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持《かねもち》だと測量する人もありましょう。所が私は又その測量者があろうとなかろうと、その推測が中《あた》ろうと中るまいと、少しも頓着《とんじゃく》なしに相替らず悠々として居ます。既《すで》に先年、所得税法の始めて発布せられた時などは可笑《おか》しい、区内の所得税掛りとか何とか云う人が、私の家には財産が凡《およ》そ七十万円あるその割合で税を取ると、内々|云《いっ》て来た者があるから、私がその者に云うに、何卒《どうぞ》その言葉を忘れて呉《く》れるな、見て居る前で福澤の一家残らず裸体《はだか》になって出て行くから、七十万で買《かっ》て貰いたい、財産は帳面のまゝ渡して、家も倉も衣服も諸道具も鍋も釜も皆|遣《や》るから、ソックリ買取《かいとっ》て七十万円の金に易《か》えたい、唯《ただ》漠然たる評価は迷惑だ、現金で売買したい、爾《そ》うなれば生来始めての大儲けで、生涯さぞ安楽であろうと云て、大笑いしたことがあります。
他人に私事を語らず
私が経済上に堅固を守《まもっ》て臆病で大胆な事の出来ないのは、先天の性質であるか、抑《そ》も亦《また》身の境遇に駈られて遂《つい》に堅く凝《こ》り固まったものでしょう。本年六十五歳になりますが、二十一歳のとき家を去《さっ》て以来、自《みず》から一身の謀《はかりごと》を為《な》し、二十三歳、家兄《かけい》を喪《うしな》いしより後は、老母と姪と二人の身の上を引受け、二十八歳にして妻を娶り子を生み、一家の責任を自分一身に担《にな》うて、今年に至るまで四十五年のその間、二十三歳の冬大阪緒方先生に身の貧困を訴えて大恩に浴したるのみ、その他は仮初《かりそめ》にも身事家事の私を他人に相談したこともなければ又依頼したこともない。人の智恵を借りようとも思わず、人の差図《さしず》を受けようとも思わず、人間万事天運に在りと覚悟して、勉《つと》めることは飽《あ》くまでも根気|能《よ》く勉《つと》めて、種々様々の方便を運《めぐ》らし、交際を広くして愛憎の念を絶ち、人に勧め又人の同意を求めるなどは十人並に遣《や》りながら、ソレでも思う事の叶わぬときは、尚《な》おそれ以上に進んで哀願はしない、唯《ただ》元に立戻《たちもどっ》て独《ひと》り静《しずか》に思止《おもいとどま》るのみ。詰《つま》る所、他人の熱に依《よ》らぬと云《い》うのが私の本願で、この一義は私が何時《いつ》発起したやら、自分にも是《こ》れと云う覚えはないが、少年の時からソンな心掛け、イヤ心掛けと云うよりもソンな癖があったと思われます。
按摩を学ぶ
中津《なかつ》に居て十六、七歳のとき、白石《しらいし》と云う漢学先生の塾に修業中、同塾生の医者か坊主か二人、至極《しごく》の貧生で、二人とも按摩《あんま》をして凌《しの》いで居る者がある。その時、私は如何《どう》でもして国を飛出そうと思て居るから、之《これ》を見て大《おおい》に心を動かし、コリャ面白い、一文なしに国を出て、罷《まか》り違《ちが》えば按摩《あんま》をしても喰《く》うことは出来ると思《おもっ》て、ソレから二人の者に按摩の法を習い、頻《しき》りに稽古《けいこ》して随分《ずいぶん》上達しました。幸《さいわい》にその後按摩の芸が身を助ける程の不仕合《ふしあわせ》もなしに済《す》みましたが、習うた芸は忘れぬもので、今でも普通の田舎按摩よりかエライ。湯治などに行《いっ》て家内子供を揉んで遣《やっ》て笑わせる事があります。こんな事がマア私の常に云う自力自活の姿とでも云《い》うべきものか、是れが故人の伝を書くとか何とか云えば、何々氏|夙《つと》に独立の大志あり、年《とし》何歳その学塾に在るや按摩法を学んで云々《うんぬん》なんと、鹿爪《しかつめ》らしく文字を並べるであろうが、私などは十六、七のとき大志も何もありはせぬ、唯《ただ》貧乏でその癖、学問修業はしたい、人に話しても世話をして呉《く》れる気遣いなし、しょうことなしに自分で按摩と思付《おもいつい》た事です。凡《およ》そ人の志はその身の成行《なりゆき》次第に由《よっ》て大きくもなり又小さくもなるもので、子供の時に何を言おうと何を行おうと、その言行が必ずしも生涯の抵当になるものではない、唯先天の遺伝、現在の教育に従《したがっ》て、根気|能《よ》く勉《つと》めて迷わぬ者が勝を占めることでしょう。
一大投機
私が商売に不案内とは申しながら、生涯の中で大きな投機のようなことを試《こころ》みて、首尾|能《よ》く出来た事があります。ソレは幕府時代から著書|飜訳《ほんやく》を勉めて、その製本|売捌《うりさばき》の事をば都《すべ》て書林に任《まか》してある。所が江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、兎角《とかく》人を馬鹿にする風《ふう》がある。出版物の草稿が出来ると、その版下を書くにも、版木《はんぎ》版摺《はんずり》の職人を雇うにも、亦《また》その製本の紙を買入るゝにも、都《すべ》て書林の引受けで、その高いも安いも云うがまゝにして、大本《おおもと》の著訳者は当合扶持《あてがいぶち》を授けられると云《い》うのが年来の習慣である。ソコで私の出版物を見ると中々大層なもので、之《これ》を人仕せにして不利益は分《わかっ》て居る。書林の奴等《やつら》に何程の智恵もありはしない、高《たか》の知れた町人だ、何でも一切《いっさい》の権力を取揚《とりあ》げて此方《こっち》のものにして遣《や》ろうと説を定《さだ》めた。定めたは宜《よ》いが実は望洋の歎で、少しも取付端《とっつきは》がない。第一番の必要と云うのが職人を集めなければならぬ。今までは書林が中に挟《はさ》まって居て、一切の職人と云う者は著訳者の御直参《おじきさん》でなく、向う河岸に居るようなものだから、彼《か》れを此方の直轄にしなければならぬと云うのが差向《さしむ》きの必要。ソコで私は一策を案じたその次第は、当時、明治の初年で余程金もあり、之《これ》を掻《かき》集めて千両ばかり出来たから、夫《そ》れから数寄屋町の鹿島と云う大きな紙問屋に人を遣《やっ》て、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を即金で一度に買うことに約束をした。その時に千両の紙と云《い》うものは実に人の耳目《じもく》を驚かす。如何《いか》なる大書林と雖《いえど》も、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへ持《もっ》て来て千両現金、直《す》ぐに渡して遣《や》ると云うのだから、値《ね》も安くする、品物も宜《よ》い物を寄越すに極《きまっ》てる。高かったか安かったか知らないが、百何十俵の半紙を一時に新銭座《しんせんざ》に引取《ひきとっ》て、土蔵一杯積込んで、ソレから書林に話して版摺の職人を貸して呉《く》れと云うことにして、何十人と云う大勢の職人を集め、旧同藩の士族二人を監督に置《おい》て仕事をさせて居る中に、職人が朝夕紙の出入《だしい》れをするから、蔵に這入《はいっ》てその紙を見て大に驚き、大変なものだ、途方もないものだ、この家に製本を始めたが、このくらい紙があれば仕事は永続するに違《ちが》いないと先《ま》ず信仰して、且《か》つ此方《こっち》では払いをキリ/\して遣《や》ると云うような訳《わ》けで、是《こ》れが端緒《いとぐち》になって、職人共は問わず語りに色々な事を皆白状して仕舞《しま》う。此方の監督者は利いた風《ふう》をして居るが、その実は全くの素人でありながら、職人に教わるようなもので、段々巧者になって、ソレから版木師も製本仕立師も次第々々に手に附けて、是《こ》れまで書林の為《な》すべき事は都《すべ》て此方の直轄にして、書林には唯《ただ》出版物の売捌《うりさばき》を命じて手数料を取らせる計《ばか》りのことにしたのは、是《こ》れは著訳社会の大変革でしたが、唯この事ばかりが私の商売を試《こころ》みた一例です。
底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
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