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ダイガクコトハジメ - 青空文庫『学校』 - 『福翁自伝 - 品行家風』福沢諭吉

参考文献・書籍

初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号

関連:慶應義塾適塾福沢諭吉緒方洪庵長与専斎箕作秋坪

品行家風

莫逆の友なし

 

 経済の事は右の如《ごと》くにして、私は私の流義を守《まもっ》て生涯このまゝ替えずに終ることであろうと思いますが、ソレから又《また》自分の一身の行状は如何《どう》であったか、家を成した後に家の有様は如何《どう》かと云《い》うことに付《つい》て、有りのまゝの次第を語りましょう。扨《さて》私の若い時は如何《どう》だと申すに、中津《なかつ》に居たとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打解けて真実に交わることが出来ない、本当に朋友になって共々に心事を語る所謂《いわゆる》莫逆《ばくげき》の友と云うような人は一人もない、世間にないのみならず親類中にもない、と云《いっ》て私が偏窟《へんくつ》者で人と交際が出来ないと云うではない。ソリャ男子に接しても婦人に逢うても快く話をして、ドチラかと云えばお饒舌《しゃべ》りの方であったが、本当を云うと表面《うわむき》ばかりで、実はこの人の真似をして見たい、彼《あ》の人のように成りたいとも思わず、人に誉められて嬉しくもなく、悪く云われて怖くもなく、都《すべ》て無頓着《むとんじゃく》で、悪く評すれば人を馬鹿にして居たようなもので、仮初《かりそめ》にも争う気がないその証拠には、同年輩の子供と喧嘩をしたことがない、喧嘩をしなければ怪我もしない、友達と喧嘩をして泣《ない》て家に帰《かえっ》て阿母《おっか》さんに言告《いいつ》けると云うようなことは唯《ただ》の一度もない。口先き計《ばか》り達者で内実は無難無事な子でした。

 


大言壮語の中、忌むべきを忌む

 

 ソレから国を去《さっ》て長崎に行き大阪に出てその修業中も、ワイ/\朋友と共に笑い共に語《かたっ》て浮々《うか/\》して居るようにあるけれども、身の行状を慎《つつし》み品行を正しくすると云《い》うことは、努《つと》めずして自然にソレが私の体に備《そなわっ》て居ると云《いっ》ても宜《よろ》しい。モウそれはさん/″\な乱暴な話をして、大言壮語、至らざる所なしと云う中にも、嫌《いや》らしい汚ない話と云うことは一寸《ちょい》とでも為《し》たことがない。同窓生の話に能《よ》くある事で、昨夜、北の新地に遊んでなんと云うような事を云出《いいだ》そうとすると、私は態《わざ》と其処《そこ》を去らずに大|箕坐《あぐら》をかいてワイ/\とその話を打消し、「馬鹿野郎、余計なことを口走るな、と云うような調子で雑《ま》ぜ返して仕舞《しま》う。ソレから江戸に出て来ても相替《あいかわ》らずその通り、朋友も多い事だから相互《あいたがい》に往来するのは不断の事で、頻《しき》りに飛廻《とびまわっ》て居たけれども、扨《さて》例の吉原とか深川とか云う事になると、朋友共が私に話をすることが出来ない。その癖《くせ》私は能く事情を知《しっ》て居る。誠に事細《ことこまか》に知て居るその訳《わ》けは、小本《こほん》なんぞ読むにも及ばず、近く朋友共が馬鹿話に浮かれて饒舌《しゃべ》るのを、黙《だまっ》て聞《きい》て居れば容易に分る。六《むず》かしい事も何にもない、チャンと呑込んで知《しっ》て居るけれども、如何《いか》なこと、左様《さよう》な事を思出したこともないのみならず、吉原深川は扨《さて》置き、上野の花見に行《いっ》たこともない。

 


始めて上野、向島を見る

 

 私は安政三[#「三」に「〔五〕」の注記]年、江戸に出て来て、只《ただ》酒が好きだから所謂《いわゆる》口腹《こうふく》の奴隷で、家にない時は飲みに行かなければならぬ、朋友|相会《あいかい》すれば飲みに行くと云《い》うような事は、ソリャ為《し》て居るけれども、遂《つい》ぞ花見遊山はしない。文久三年六月、緒方先生不幸のとき、下谷《したや》の自宅出棺、駒込の寺に葬式|執行《しっこう》のその時、上野山内を通行して、始めて上野と云う処を見た。即《すなわ》ち私が江戸に来てから六年目である。「成《な》る程これが上野か、花の咲く処かと、通行しながら見物しました。向島もその通りで、江戸に来てから毎度人の話には聞くが一度も見たことがない。所で明治三年|酷《ひど》い腸《ちょう》窒扶斯《チフス》を煩《わずら》い、病後の運動には馬に乗るのが最も宜《よろ》しいと、医者も勧め朋友も勧めたので、その歳の冬から馬に乗《のっ》て諸方を乗廻《のりまわ》り、向島と云う処も始めて見れば、玉川辺にも遊び、市中内外、行かれる処だけは何処《どこ》でも乗廻わして、東京の方角も大抵分りました。その時に向島は景色もよし道もよし、毎度馬を試《こころ》みて、向島を廻って上野の方に帰《かえっ》て来るとき、何でも土手のような処を通りながら、アヽ彼処《あれ》が吉原かと心付《こころづい》て、ソレではこのまゝ馬に乗《のっ》て吉原見物を為《し》ようじゃないかと云出《いいだ》したら、連騎の者が場所柄に騎馬では余り風《ふう》が悪いと止《と》めて、ソレ切りになって未《いま》だに私は吉原と云《い》う処を見たことがない。

 


小僧に盃を差す

 

 斯《こ》う云うような次第で、一寸《ちょい》と人が考えると私は奇人|偏窟《へんくつ》者のように思われましょうが、決して爾《そ》うでない。私の性質は人に附合《つきあ》いして愛憎《あいそう》のない積りで、貴賤貧富、君子も小人も平等一様、芸妓に逢うても女郎を見ても塵も埃も之《これ》を見て何とも思わぬ。何とも思わぬから困ることもない。此奴《こいつ》は穢《けが》れた動物だ、同席は出来ないなんて、妙な渋い顔色して内実プリ/\怒ると云うような事は決してない。古いむかしの事であるが、四十余年前、長崎に居るとき、光永寺と云う真宗寺《しんしゅうでら》に同藩の家老が滞留中、或《ある》日市中の芸妓《げいぎ》か女郎か五、六人も変な女を集めて酒宴の愉快、私はその時酒を禁じて居るけれども陪席|御相伴《ごしょうばん》を仰《おお》せ付けられ、一座|杯盤狼藉《はいばんろうぜき》の最中、家老が私に杯をさして、「この酒を飲んで、その杯を座中の誰でも宜《よろ》しい、足下《そくか》の一番好いてる者へさすが宜《よ》かろうと云うのは、実は其処《そこ》に美人が幾人《いくたり》も居る、私はその杯を美人にさしても可笑《おか》しい、態《わざ》と避けてさゝなくても可笑しい、屹《きっ》と困るであろうと嬲《なぶ》るのはチャント分《わかっ》て居る。所が私は少しも困らない。杯をグイと干して、大夫さんの命に従い一番好いた人に上げます、ソレ高《たか》さん、と云《いっ》て杯をさしたのは、六、七歳ばかりの寺の末子《ばっし》で、私が瀉蛙々々《しゃあしゃあ》として笑《わらっ》て居たから家老殿も興にならぬ。既《すで》に今年春ジャパン・タイムス社の山田季治《やまだすえじ》が長崎へ行くと聞き、不図《ふと》光永寺の事を思出して、あの時は如何《どう》なってるか、高《たか》さんと云《い》う小僧があった筈《はず》だが、如何《どう》して居るか尋ねて見たいと申したら、山田の返事に、寺は旧《もと》の通り焼けもせず、高さんも無事息災、今は五十一歳の老僧で隠居して居るとて写真など寄送《よこ》しましたが、右の一件も私の二十一歳の時だから、計《かぞ》えて見ると高さんは七歳でしたろうに、恐ろしい古い話です。

 


嫌疑を憚らず

 

 左様《そう》いう訳《わ》けで私は若い時から婦人に対して仮初《かりそめ》にも無礼はしない。仮令《たと》い酒に酔《よっ》ても謹《つつ》しむ所は屹《きっ》と謹しみ、女の忌《いや》がるような禁句を口外したことはない。上戸《じょうご》本性で、謹みながら女を相手に話もすれば笑いもして談笑自在、何時《いつ》も慣れ/\しくして、その極《きわみ》は世間で云う嫌疑《けんぎ》と云うような事を何とも思わぬ。血に交わりて赤くならぬこそ男子たる者の本領であると、チャンと自分に説を極《き》めてあるから、男女夜行くときは灯《ともしび》を照らすとか、物を受授するに手より手にせずとか、アンな古《ふる》めかしい教訓は、私の眼から見ると唯《ただ》可笑《おか》しいばかり。扨《さて》も/\卑怯なる哉《かな》、ソンな窮窟な事で人間世界が渡れるものか、世間の人が妙な処に用心するのはサゾ忙しいことであろう、自分は古人の教《おしえ》に縛《しばら》れる気はないと、自《みず》から自分の身を信じて颯々《さっさつ》と人の家に出入《でいり》して、其処《そこ》にお嬢さんが居ようと、若い内君《おかみさん》が独り留守して居ようと、又は杯盤狼藉《はいばんろうぜき》の常に芸妓とか何とか云《い》う者が騒いで居ようと、少しも遠慮はしない。酒を飲《のん》で大きな声をしてドン/\話をして、酔えば面白くなって戯れて居ると云うような風《ふう》であるから、或《あるい》は人が見たらば変に思うこともありましょう。

 


醜声外聞の評判却て名誉

 

 ソコで或《ある》時奥平藩の家老が態々《わざわざ》私を呼びによこして、扨《さて》云うよう、足下《そくか》は近来|某々《それそれ》の家などに毎度出入して、例の如《ごと》く夜分晩くまで酒を飲で居るとの風聞、某家には娘もあり、某家は何時《いつ》も芸妓《げいぎ》など出入《でいり》して家風が宜《よろ》しくない、足下がそんな処に近づいて醜声外聞とは残念だ、君子は瓜田《かでん》に履《くつ》を結ばず、李下《りか》に冠を正さずと云うことがある、年若い大事な身体《からだ》である、少し注意致したら宜《よ》かろうと、真面目《まじめ》になって忠告したから、私はその時少しも謝《あやま》らない。左様《さよう》で御在ますか、コリャ面白い。私は今まで随分《ずいぶん》太平楽を云《いっ》たとか、恐ろしい声高《こわだか》に話をして居たとか云て、毎度人から嫌《いや》がられたこともありましょうが、併《しか》し艶男《いろおとこ》と云《い》われたのは今日が生れてから始めて。コリャ私の名誉で、至極《しごく》面白い話だから私は罷《や》めますまい。相替《あいかわ》らずその家に出入しましょう。此処《ここ》で御注意を蒙《こうむっ》て夫《そ》れで前非を改めて罷《や》めるなんて、ソンな弱い男ではござらぬ。但《ただ》し御親切は難有《ありがた》い、御礼は申上げましょうが、実は私は何とも思わぬ。却《かえっ》て面白いから、モッと評判を立てゝ貰《もら》いたいと云《いっ》て、冷かして帰《かえっ》た事があります。

 


始めて東京の芝居を観る

 

 前に申す通り、私は江戸に来て六年目に始めて上野と云う処を見て、十四年自に始めて向島を見たと云うくらいの野暮《やぼ》だから、勿論《もちろん》芝居などを見物したことはない。少年のとき旧藩|中津《なかつ》で、藩主が城内の能舞台で田舎の役者共を呼出して芝居を催《もよお》し、藩士ばかりに陪観《ばいかん》させる例があって、その時に一度見物して、その後大阪修業中、今の市川団十郎《いちかわだんじゅうろう》の実父|海老蔵《えびぞう》が道頓堀の興行中、或《あ》る夜同窓生が今から道頓堀の芝居に行くから一緒に行こう、酒もあると云うから、私は酒と聞《きい》て応と答え、ソレから行く道で酒を一升|買《かっ》て、徳利を携《たずさ》えて二、三人連れで芝居に這入《はい》り、夜分二幕か三幕見たのが生来二度自の見物。ソレから江戸に来て、江戸が東京となっても、芝居見物の事は思出しもせず、又その機会もなくして居る中に、今を去ること凡《およ》そ十五、六年前、不図《ふと》した事で始めて東京の芝居を見て、その時|戯《たわぶ》れに、

誰道名優伎絶倫
先生遊戯事尤新
春風五十独醒客
却作梨園一酔人

と云《い》う詩が出来ました。之《これ》を見ると私が変人のようにあるが、実は鳴物《なりもの》は甚《はなは》だ好きで、女の子には娘にも孫にも琴、三味線を初め、又運動半分に踊《おどり》の稽古もさせて老余唯一の楽みにして居ます。

 


不風流の由来

 

 元来《がんらい》私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして仕舞《しまっ》たのでしょう。先《ま》ず第一に私は幼少の時から教育の世話をして呉《く》れる者がないので、ロクに手習《てならい》をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習《ならっ》たら宜《よ》さそうなものだが、その時は既《すで》に洋学の門に入《はいっ》て天下の儒者流を目の敵《かたき》にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、就中《なかんずく》その行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌《しゃべ》りながら、サアと云《い》うときには夫《そ》れ程に意気地《いくじ》はない。殊《こと》に不品行で酒を飲《のん》で詩を作《つくっ》て書が旨いと云《い》えば評判が宜《よ》い。都《すべ》て気に喰《く》わぬ。よし/\洋学流の吾々《われわれ》は反対に出掛けて遣《や》ろうと云《い》う気になって、恰《あたか》も江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売払《うりはらっ》て仕舞《しま》い、兼て嗜《す》きな居合《いあい》も罷《や》めて知らぬ風《ふう》をして居たような塩梅《あんばい》式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば此方《こっち》は態《わざ》と作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方は殊《こと》更らに等閑《なおざり》にして善く書かずに見せようと、飛だ処に力身込《りきみこん》で手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、殊《こと》に兄は書も善くし、画《え》も出来、篆刻《てんこく》も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画は扨《さて》置き骨董も美術品も一切《いっさい》無頓着《むとんじゃく》、住居《すまい》の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、唯《ただ》人の着せて呉《く》れるものを着て居る。或《ある》時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥《たんす》の引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だと云《いっ》て大《おおい》に笑われたことがある。殺風景も些《ち》と念入《ねんいり》の殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟《ひっきょう》少年の時から種々様々の事情に逐《お》われてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。兎角《とかく》世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、是《こ》れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\児孫《まごこ》を集めて共に戯《たわぶ》れ、色々な芸をさせたり嗜《す》きな物を馳走《ちそう》したりして、一家内の長少睦しく互《たがい》に打解けて談《かた》り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。

 


妻を娶て九子を生む

 

 ソレから私方の家事家風を語りましょう。文久元年、旧同藩士の媒妁を以《もっ》て同藩士族江戸|定府《じょうふ》土岐太郎八《ときたろはち》の次女を娶《めと》り、是《こ》れが今の老妻です。結婚の時私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば妻の方は上流士族、私は小士族、少し不釣合《ふつりあい》のようにあるが、血統は両人共|頗《すこぶ》る宜《よろ》しく、往古はイザ知らず、凡《およ》そ五世以降双方の家に遺伝病質もなければ忌むべき病に罹《かか》りたる先人もなし。妻は無論、私の身に悪疾のあるべきようもなく、夫妻無病。文久三年に生れたのが一太郎《いちたろう》、その次は捨次郎《すてじろう》と、次第に誕生して四男五女、合して九人の子供になり、幸《さいわい》にして九人とも生れたまゝ皆無事で一人も欠《か》けない。九人の内五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体衛生の為《た》めに乳母を雇うて育てました。
子供の活動を妨げず[#「子供の活動を妨げず」は窓中見出し]養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服はさせても滋養物は屹《きっ》と与えるようにして、九人とも幼少の時から体養に不足はない。又《また》その躾方《しつけかた》は温和と活溌《かっぱつ》とを旨とし、大抵《たいてい》の処までは子供の自由に任せる。例えば風呂の湯を熱くして無理に入れるような事はせず、据風呂《すえふろ》の側《そば》に大きな水桶を置《おい》て、子供の勝手次第に、ぬるくも熱くもさせる。全く自由自在のようなれども、左《さ》ればとて食物を勝手に任《まか》せて何品でも喰い次第にすると云う訳《わ》けではない。又子供の身体の活溌を祈れば室内の装飾などは迚《とて》も手に及ばぬ事と覚悟して、障子|唐紙《からかみ》を破り諸道具に疵《きず》付けても先《ま》ず見逃がしにして、大抵な乱暴には大きな声をして叱ることはない。酷《ひど》く剛情を張るような事があれば、父母の顔色を六《むず》かしくして睨む位が頂上で、如何《いか》なる場合にも手を下《くだ》して打《うっ》たことは一度もない。又親が実子に向《むかっ》ても嫁に接しても、又《また》兄姉が弟妹に対しても名を呼棄《よびすて》にせず、家の中に厳父慈母《げんぷじぼ》の区別なく、厳と云《い》えば父母共に厳なり、慈と云えば父母共に慈なり、一家の中は丸で朋友のようで、今でも小さい孫などは、阿母《おっか》さんはどうかすると怖いけれども、お祖父《じい》さんが一番怖くないと云《いっ》て居る。世間|並《なみ》にすると少し甘いように見えるが、ソレでも私方の孫子《まごこ》に限《かぎっ》て別段に我儘《わがまま》でもなし、長少|戯《たわぶ》れながら長者の真面目に言う事は能《よ》く聞《きい》て逆う者もないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。

 


家に秘密事なし

 

 又家の中に秘密事なしと云《い》うのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない、ドンな事でも云われないことはない。子供が段々成長して、是《こ》れは彼《あ》の子に話して此《こ》の子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届を咎《とが》めて遣《や》れば、子供も亦《また》親の失策を笑うと云うような次第で、古風な目を以《もっ》て見ると一寸《ちょい》と尊卑の礼儀がないように見えましょう。

 


礼儀足らざるが如し

 

 その礼儀の事に就《つい》て申せば、家の主人が出入《でいり》するとき家内の者が玄関まで送迎して御|辞儀《じぎ》をすると云うような事が能《よ》く世間にあるが、私の処では絶えてソンな事がない。私の外出するには玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで唯《ただ》足の向《むい》た方に這入《はいっ》て来る。或《あるい》は車に乗《のっ》て帰《かえっ》て来た時に、車夫|又《また》別当共へ、玄関の処で御帰りなんて余計な事を云《いっ》て呉《く》れるな、と云《い》う訳《わ》けであるから、幾ら玄関で怒鳴《どなっ》ても出て来る人はない。その一点になると世間の人じゃない近くは内の御祖母《おばば》さんが怪《あやし》んで居ましょう。この老人は土岐《とき》家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分不作法で善くない、左《さ》ればとて是《こ》れが悪いと云う箇条もない、妙な事だと思《おもっ》て居るだろうと、私は窃《ひそか》に推察します。

 


子女の間に軽重なし

 

 ソレから又私に九人の子供があるが、その九人の中に軽重愛憎《けいじゅうあいそう》と云うことは真実|一寸《ちょい》ともない。又四男五女のその男の子と女の子と違いのあられよう訳けもない。世間では男子が生れると大造|目出度《めでた》がり、女の子でも無病なれば先《ま》ず/\目出度《めでた》いなんて、自《おのず》から軽重があるようだが、コンな馬鹿気《ばかげ》た事はない。娘の子なれば何が悪いか、私は九人の子がみんな娘だって少しも残念と思わぬ。唯《ただ》今日では男の子が四人、女の子が五人、宜《よ》い塩梅《あんばい》に振分けになってると思うばかり、男女長少、腹の底から之《これ》を愛して兎《う》の毛ほども分隔《わけへだ》てはない。道徳学者は動《やや》もすると世界中の人を相手にして一視同仁なんて大きな事を云《いっ》てるではないか。況《ま》して自分の生んだ子供の取扱いに、一視同仁が出来ぬと云《い》うような浅ましい事があられるものか。唯《ただ》私の考《かんがえ》に、総領もその他の子供も同じとは云《い》いながら、私が死ねば総領が相続する、相続すれば自《おのず》から中心になるから、財産を分配するにも、外《ほか》の子に比較して一段手厚くして、又何か物があって、兄弟中誰にも遣《や》りようがない、唯一つしかないと云うような物は、総領の一太郎が取《とっ》て宜《よ》かろうと云うくらいな事で、その外《ほか》には何も変ることはない。例えば斯《こ》う云う事がある。明治十四、五年の頃、月日は忘れたが、私が日本橋の知る人の家に行《いっ》て見ると、その座敷に金屏風だの蒔絵だの花活《はないけ》だのゴテ/\一杯に列《なら》べてある。コリャ何だと聞《きい》て見れば、亜米利加《アメリカ》に輸出する品だと云う。夫《そ》れから私が不図《ふと》した出来心で、この品を一目見渡して私の欲しいものは一品でもない、皆不用品だが、又入用と云えば一品も残さず皆入用だ、兎《と》に角《かく》に之《これ》を亜米利加に積出して幾らの金になれば宜いのかソレは知らぬけれども、売ると云えば皆買うが如何《どう》だ、買《かっ》たからと云てソレを又《また》儲けて売ろうと云うのではない、家に仕舞《しまい》込んで置くのだと云うと、その主人も唯の素町人でない、成程|爾《そ》うだな、コリャ名古屋から来た物であるが、亜米利加に遣《やっ》て仕舞《しま》えば是《こ》れ丈《だ》けの品がなくなる、お前さんの処に遣れば失くならずにあるから売りましょう、ソンなら皆買うと云て、二千二、三百円かで、何百品あるか碌《ろく》に品も見ないで皆|買《かっ》て仕舞《しまっ》たが、夫《そ》れから私がその品を見て楽むではなし、品柄も能《よ》く知らず数も覚えず、唯《ただ》邪魔になるばかりだから、五、六年前の事でした、九人の小供に分けて取《とっ》て仕舞《しま》えと申して、小供がワイ/\寄《よっ》て、その品を九に分けて、ソレを籤《くじ》で取《とっ》て、今では皆小供が銘々《めいめい》に引受けて、家を持《もっ》て居る者は家に持て行く者もあり、マダ私のところの土蔵の中に入れてあるのもある、と云《い》うのが凡《およ》そ私の財産分配法で、如何《いか》にもその子に厚薄と云うものは一寸《ちょい》ともないのですから、小供の中に不平があろうたッて有られた訳《わ》けのものでないと思て居ます。

 


西洋流の遺言法に感服せず

 

 近来遺言も書きました。遺言の事に就《つい》ては、能く西洋の話にある主人の死んだ後で遺言書を明けて見てワッと驚いたなんて云う事は毎度|聞《きい》てるが、私は甚《はなは》だ感服しない。死後に見せることを生前に言うことが出来ないとは可笑《おか》しい。畢竟《ひっきょう》西洋人が習慣に迷うて馬鹿をして居るのだ、乃公《おれ》はソンな馬鹿の真似はしないぞと云《いっ》て、家内子供に遺言の書付を見せて、この遺言書は箪笥《たんす》のこの抽斗《ひきだし》に這入《はいっ》て居るから皆能く見て置け、又《また》説が変れば又|書替《かきか》えて又見せるから、能く見て置《おい》て、乃父《おれ》の死んだ後で争うような卑劣な事をするなよと申して笑《わらっ》て居ます。

 


体育を先にす

 

 扨《さて》又子供の教育法に就《つい》ては、私は専《もっぱ》ら身体の方を大事にして、幼少の時から強《し》いて読書などさせない。先《ま》ず獣身《じゅうしん》を成して後に人心を養うと云《い》うのが私の主義であるから、生れて三歳五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば手習《てならい》をさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。夫《そ》れまでは唯《ただ》暴れ次第に暴れさせて、唯衣食には能《よ》く気を付けて遣《や》り、又子供ながらも卑劣な事をしたり賤《いや》しい言葉を真似たりすれば之《これ》を咎《とがむ》るのみ、その外《ほか》は一切《いっさい》投遣《なげや》りにして自由自在にして置くその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。即《すなわ》ち是《こ》れが先《ま》ず獣身を成すの法にして、幸《さいわい》に犬猫のように長成《ちょうせい》して無事無病、八、九歳か十歳にもなればソコで始めて教育の門に入れて、本当に毎日時を定めて修業をさせる。尚《な》おその時にも身体の事は決して等閑《なおざり》にしない。世間の交母は動《やや》もすると勉強々々と云《いっ》て、子供が静《しずか》にして読書すれば之《これ》を賞《ほ》める者が多いが、私方の子供は読書勉強して遂《つい》ぞ賞められたことはないのみか、私は反対に之を止《と》めて居る。小供は既《すで》に通り過ぎて今は幼少な孫の世話をして居るが、矢張《やは》り同様で、年齢不似合に遠足したとか、柔術体操がエラクなったとか云《い》えば、褒美でも与えて賞《ほ》めて遣《や》るけれども、本を能《よ》く読むと云《いっ》て賞めたことはない。既《すで》に二十年前の事です。長男|一太郎《いちたろう》と次男|捨次郎《すてじろう》と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させて居た処が兎角《とかく》胃が悪くなる。ソレから宅に呼返して色々手当すると次第に宜《よ》くなる。宜くなるから又《また》入れると又悪くなる。到頭《とうとう》三度入れて三度失敗した。その時には田中不二麿《たなかふじまろ》と云《い》う人が文部の長官をして居たから、田中にも毎度話をしました。私方の小供を予備門に入れて実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのまゝにして遣《やっ》て行けば、生徒を殺すに極《きまっ》て居る。殺さなければ気狂いになるか、然《しか》らざれば身心共に衰弱して半死半生の片輪者になって仕舞《しま》うに違いない。丁度《ちょうど》この予備門の修業が三、四年かゝる、その間に大学の法が改まるだろうと思《おもっ》て、ソレを便りに子供を予備門に入れて置くが、早く改正して貰《もら》いたい。この儘《まま》で置くならば東京大学は少年の健康屠殺場と命名して宜《よろ》しい。早々教授法を改めて貰いたいと、懇意《こんい》の間柄で遠慮なく話はしたが、何分|埒《らち》が明かず、子供は相替《あいかわ》らず三ヶ月|遣《やっ》て置けば三ヶ月引かして置かなければならぬと云うような訳《わ》けで、何としても予備門の修業に堪《た》えず、私も遂《つい》に断念して仕舞うて、夫《そ》れから此方《こちら》の塾(慶應義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて、亜米利加《アメリカ》に遣て彼《か》の大学校の世話になりました。私は日本大学の教科を悪いと云うのではない、けれども教育の仕様《しよう》が余り厳重で、荷物が重過ぎるのを恐れて文部大学を避けたのです。その通りで今でも説は変えない、何としても身体が大事だと思います。

 


子女幼時の記事

 

 又私の考《かんがえ》に、人間は成長して後に自分の幼年の時の有様《ありさま》を知りたいもので、他人はイザ知らず私が自分で左様《そう》思うから、筆まめな事だが私は小供の生立《おいたち》の模様を書《かい》て置きました。この子は何年何月何日何分に産れ、産の難易は云々《うんぬん》、幼少の時の健康は斯《か》く/\、気質の強弱、生付《うまれつ》きの癖など、ザッと荒増《あらま》し記してあれば、幼少の時の写真を見ると同様、この書《かい》たものを見れば成長の後、第一面白いに違いない、自《おのず》から又心得になる事もありましょう。私などは不幸にして実父の面《かお》も知らず、画像《えぞう》に写したものもなし、又私がドンな子供であったか母に聞《きい》たばかりで書たものはない。少年の時から長老の人がソンな話をすると耳を傾《かたむ》けて聞《きい》て、唯《ただ》残念にばかり思うて、独《ひと》り身の不幸を悲んで居たから、今度は私の番になってこの通りに自分の伝を記して子供の為《た》めにし、又《また》先年小供の生立の事をも認《したた》めて置《おい》たから先《ま》ず遺憾はない積りです。

 


三百何十通の手紙

 

 又親子の間は愛情一偏で、何ほど年を取《とっ》ても互《たがい》に理窟らしい議論は無用の沙汰《さた》である。是《こ》れは私も妻も全く同説で、親子の間を成る丈《た》け離れぬようにする計《ばか》り。例えば先年、長男次男が六年の間|亜米利加《アメリカ》に行《いっ》て居ましたその時には、亜米利加の郵船が一週間に大抵一度、時としては二週間に一度と云《い》う位の往復でしたが、小供両人の在米中、私は何か要用のときは勿論《もちろん》、仮令《たと》い用事がなくても毎便必ず手紙を遣《や》らない事はない。六年の間何でも三百何十通と云う手紙を書きましたが、私が手紙を書放《かきはなし》にして家内が校合方《きょうごうかた》になって封じて遣るから、両親の親筆に相違ない。彼方《あちら》の小供両人も飛脚船の来る度に必ず手紙を寄越《よこ》す。この事は両人出発の節堅く申付《もうしつけ》て、「留学中手紙は毎便必ず/\出せ、用がなければ用がないと云《いっ》て寄越せ、又学問を勉強して不死半生の色の青い大学者になって帰《かえっ》て来るより、筋骨|逞《たくま》しき無学文盲なものになって帰て来い、その方が余程|悦《よろこば》しい。仮初《かりそめ》にも無法な事をして勉強し過ぎるな。倹約は何処《どこ》までも倹約しろ、けれども健康に係わると云うほどの病気か何かの事に付き、金次第で如何《どう》にもなると云うことならば思い切《きっ》て金を使え、少しも構わぬからと斯《こ》う云うのが私の命令で、ソンな事で六年の間学んで二人とも無事に帰て来ました。

 


一身の品行、亦自から効力あり

 

又《また》私の内が夫婦親子|睦《むつま》じくて私の行状が正しいからと云《いっ》て、特に誉める程の事でもない。世の中に品行方正の君子は幾らもある。私も亦《また》、これが人間唯一の目的で一身の品行修まりて能事《のうじ》終るなんて自慢をするような馬鹿でもないと自《みず》から信じて居るが、扨《さて》又これが妙なもので、社会の交際に関係する所は甚《はなは》だ広くて、意外の辺に力を及ぼすことがあるその一例を申せば、旧藩の奥平家に対して私は如何《いか》なる者ぞと尋ぬるに、見る影もなき貧小士族が、洋学など修業して異様な説を唱え、或《あるい》は外国に行き、又|或《あるい》は外国の書を飜訳《ほんやく》して大言を吐散《はきち》らし、剰《あまつ》さえ儒流を軽蔑《けいべつ》して憚《はばか》る所を知らずと云《い》えば、是《こ》れは所謂《いわゆる》異端《いたん》外道《げどう》に違《ちが》いない。同藩一般の見る所でこの通りなれば、藩主の奥なんぞにはドンな報告が這入《はいっ》て居るか知れない。兎《と》に角《かく》に福澤諭吉は大変な奴だと折紙が付《つい》て居たに違いない。所が物換り星移り、段々時勢が変遷して王政維新の世の中になって見れば、藩論も自《おのず》から面目を改め、世間一般西洋流の喧《やか》ましい今日、福澤もマンザラでなし、或《あるい》は之《これ》を近づけて何かの役に立つこともあろうと云《い》うような説がチラホラと涌《わい》て来たその時に、嶋[#「嶋」に「〔島〕」の注記]津|祐太郎《すけたろう》と云う奥平家の元老は、頗《すこぶ》る事の能《よ》く分る、云《い》わば卓識の君子で、時勢の緩急を視察して、コリャ福澤を疏外《そがい》するは不利であると云うことに着眼して居る折柄、奥平家の大奥に芳蓮院《ほうれんいん》様と云う女隠居がある、この貴婦人は一橋《ひとつばし》家から奥平家に下《くだっ》て来た由緒ある身分で、最早《もは》や余程の老年でもあり、一家無上の御方様《おんかたさま》と崇《あが》められて居る。ソコで嶋津《しまづ》が先《ま》ずその御隠居様に対して色々西洋の話をする中に、彼《か》の国には文学武備、富国強兵、医術も精《くわ》しく航海術も巧《たくみ》なり、その中には随分《ずいぶん》日本の風俗習慣に違《ちがっ》た事も数々ありますが、爰《ここ》に西洋流義に不思議なるは男女の間柄で、男女|相互《あいたがい》に軽重なく、如何《いか》なる身分の人でも一夫一婦に限《かぎっ》て居ます、是《こ》れ丈《だ》けは西洋の特色で御座《ござ》ると云《い》う所を持込んだ所が、その御隠居様も若い時には直接に身に覚えがある。この話を聞《きい》て心を動かさずには居られない。恰《あたか》も豁然《かつぜん》発明した様子で、ソレから福澤を近づける気になって、次第々々に奥向の方に出入の道が開けて、御隠居様を始め所謂《いわゆる》御上通《おかみどお》りの人に逢うて見れば、福澤の外道も唯《ただ》の人間で、角《つの》も生えて居なければ尻尾《しっぽ》のある者でもない、至極《しごく》穏かな人間だと云う所からして、段々懇親になったと云うその話は、程経《ほどへ》て後に内々嶋津から聞きました。シテ見ると一夫一婦の説も隠然《いんぜん》の中には随分勢力のあるもので、就《つい》ては今の世に多妻の悪弊を除《のぞい》て文明風にするなんと論ずるは野暮《やぼ》だと云うような説があるけれども、畢竟《ひっきょう》負借《まけおし》みの苦しい遁《に》げ口上で取るに足らない。一夫一婦の正論決して野暮《やぼ》でない、世間の多数は同主義で、殊《こと》に上流の婦人は悉《ことごと》く此方《こっち》の味方であるから、私の身がこの先《さ》き何時《いつ》まで生きて居るか知れぬけれども、有らん限りの力を尽して、前後左右を顧《かえり》みずドンな奴を敵にしても構わぬ、多妻法を取締めて、少しでもこの人間社会の表面だけでも見られるような風《ふう》にして遣《や》ろうと思《おもっ》て居ます。


底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
   2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
   1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
   1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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