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ダイガクコトハジメ - 青空文庫『学校』 - 『福翁自伝 - 大阪修行学』福沢諭吉

参考文献・書籍

初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号

関連:慶應義塾適塾福沢諭吉緒方洪庵長与専斎箕作秋坪

大阪修業

 兄の申すことには私も逆《さか》らうことが出来ず、大阪に足を止《と》めまして、緒方《おがた》先生の塾に入門したのは安政二年|卯歳《うどし》の三月でした。その前長崎に居る時には勿論《もちろん》蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は楢林《ならばやし》と云う和蘭《オランダ》通詞《つうじ》の家《うち》、同じく楢林と云う医者の家《うち》、それから石川桜所《いしかわおうしょ》と云う蘭法《らんぽう》医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸を張《はっ》て居る大家《たいか》であるから、中々入門することは出来ない。ソコで其処《そこ》の玄関に行《いっ》て調合所《ちょうごうじょ》の人などに習って居たので、爾《そ》う云うように彼方此方《あちこち》にちょい/\と教えて呉《く》れるような人があれば其処《そこ》へ行く。何処《どこ》の何某《なにがし》に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読《よん》だと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのは是《こ》れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えて貰《もら》いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢《おおぜい》書生があるけれども、その中ではマア出来の宜《よ》い方であったと思う。

 


兄弟共に病気

 

 ソコで安政二年も終り三年の春になると、新春早々|茲《ここ》に大なる不仕合《ふしあわせ》な事が起って来たと申すは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄が僂麻質斯《リューマチス》に罹《かか》り病症が甚《はなは》だ軽くない。トウ/\手足も叶《かな》わぬと云う程になって、追々《おいおい》全快するが如《ごと》く全快せざるが如くして居る間《あいだ》に、右の手は使うことが出来ずに左の手に筆を持《もっ》て書くと云うような容体《ようだい》。ソレと同時にその歳の二月頃であったが、緒方の塾の同窓、私の先輩で、予《かね》て世話になって居た加州の岸直輔《きしなおすけ》と云う人が、腸《ちょう》窒扶斯《チブス》に罹って中々の難症。ソコデ私は平生《へいぜい》の恩人だから、コンナ時に看病しなければならぬ。又加州の書生に鈴木儀六《すずきぎろく》と云う者があって、是《こ》れも岸と同国の縁で、私と鈴木と両人、昼夜看病して、凡《およ》そ三週間も手を尽したけれども、如何《どう》しても悪症でとう/\助からぬ。一体この人は加賀人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元に送《おくっ》て遣《や》ろうと両人相談の上、遺骸を大阪の千日《せんにち》の火葬場に持《もっ》て行《いっ》て焼《やい》て、骨を本国に送り、先《ま》ず事は済んだ所が、私が千日から帰て三、四日経つとヒョイと煩《わずら》い付《つい》た。容体《ようだい》がドウも只《ただ》の風邪でない。熱があり気分が甚《はなは》だ悪い。ソコデ私の同窓生は皆医者だから、誰かに見て貰《もらっ》た所が、是《こ》れは腸窒扶斯《ちょうチブス》だ、岸の熱病が伝染したのだと云《いっ》て居る間《あいだ》に、その事が先生に聞えて、その時私は堂嶋の倉屋敷の長屋に寝て居た所が、先生が見舞に見えまして、愈《いよい》よ腸窒扶斯に違いない、本当に療治《りょうじ》しなければ是れは馬鹿にならぬ病気であると云《い》う。

 


緒方先生の深切

 

 夫《そ》れから私はその時に今にも忘れぬ事のあると云うのは、緒方先生の深切。「乃公《おれ》はお前の病気を屹《きっ》と診《み》て遣《や》る。診て遣るけれども乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うて仕舞《しま》う。此《こ》の薬|彼《あ》の薬と迷うて、後《あと》になって爾《そ》うでもなかったと云《いっ》て又薬の加減をすると云《い》うような訳《わ》けで、仕舞《しまい》には何の療治をしたか訳《わ》けが分《わか》らぬようになると云うのは人情の免《まぬか》れぬ事であるから、病は診《み》て遣《や》るが執匙《しっぴ》は外《ほか》の医者に頼む。そのつもりにして居《お》れと云て、先生の朋友、梶木町《かじきまち》の内藤数馬《ないとうかずま》と云う医者に執匙を託し、内藤の家《うち》から薬を貰《もらっ》て、先生は只《ただ》毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図《さしず》するだけであった。マア今日の学校とか学塾とか云うものは、人数も多く迚《とて》も手に及ばない事で、その師弟の間《あいだ》は自《おのず》から公《おおやけ》なものになって居る、けれども昔の学塾の師弟は正《まさ》しく親子の通り、緒方《おがた》先生が私の病を見て、どうも薬を授《さずけ》るに迷うと云うのは、自分の家《うち》の子供を療治して遣《や》るに迷うと同じ事で、その扱《あつかい》は実子《じっし》と少しも違わない有様であった。後世段々に世が開けて進んで来たならば、こんな事はなくなって仕舞《しまい》ましょう。私が緒方の塾に居た時の心地《こころもち》は、今の日本国中の塾生に較《くら》べて見て大変に違《ちが》う。私は真実緒方の家《うち》の者のように思い又《また》思わずには居《お》られません。ソレカラ唯今《ただいま》申す通り実父《じっぷ》同様の緒方先生が立会《たちあい》で、内藤数馬先生の執匙で有らん限りの療治をして貰いましたが、私の病気も中々軽くない。煩《わずら》い付て四、五日目から人事|不省《ふせい》、凡《およ》そ一週間ばかりは何も知らない程の容体でしたが、幸《さいわい》にして全快に及び、衰弱はして居ましたれども、歳は若し、平生《へいぜい》身体《からだ》の強壮なその為《た》めでしょう、恢復《かいふく》は中々早い。モウ四月になったら外に出て歩くようになり、その間《あいだ》に兄は僂麻質斯《レウマチス》を煩《わずらっ》て居《お》り、私は熱病の大病後である、如何《どう》にも始末が付かない。

 


兄弟中津に帰る

 

 その中に丁度《ちょうど》兄の年期と云《い》うものがあって、二ヶ年居れば国に帰ると云う約束で、今年の夏が二年目になり、私も亦《また》病後大阪に居て書物など読むことも出来ず、兎《と》に角《かく》に帰国が宜《よ》かろうと云うので、兄弟一緒に船に乗《のっ》て中津に帰ったのがその歳の五、六月頃と思う。所が私は病後ではあるが日々に恢復《かいふく》して、兄の僂麻質斯《リューマチス》も全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもない。夫《そ》れでは私は又大阪に参りましょうと云《いっ》て出たのがその歳、即《すなわ》ち安政三年の八月。モウその時は病後とは云われませぬ、中々元気が能《よ》くて、大阪に着《つい》たその時に、私は中津屋敷の空長屋《あきながや》を借用して独居自炊、即《すなわ》ち土鍋で飯《めし》を焚《たい》て喰《くっ》て、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学して居ました。

 


家兄の不幸再遊困難

 

 所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻|帰《かえっ》て来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方《しかた》がない。取るものも取り敢《あ》えずスグ船に乗て、この度《たび》は誠に順風で、速《すみやか》に中津の港に着《つい》て、家《うち》に帰て見ればモウ葬式は勿論《もちろん》、何も斯《か》も片《かた》が付《つい》て仕舞《しまっ》た後の事で、ソレカラ私は叔父《おじ》の処の養子になって居た、所が自分の本家、即《すなわ》ち里の主人が死亡して、娘が一人《ひとり》あれども女の子では家督相続は出来ない、是《こ》れは弟が相続する、当然《あたりまえ》の順序だと云《い》うので、親類相談の上、私は知らぬ間《ま》にチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国を待《まっ》て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせて呉《く》れる位《くらい》の事だ。扨《さ》てその跡を襲《つい》だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服《きふく》を勤めねばならぬ。夫《そ》れから家督相続と云えば其《そ》れ相応の勤《つとめ》がなくてはならぬ、藩中|小士族《こしぞく》相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里《てんがいばんり》、何もかも浮足《うきあし》になって一寸《ちょい》とも落付《おちつ》かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を拒《こば》むことは出来ない。唯《ただ》言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何《どう》しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々|寄付《よりつ》かれもしない。藩中一般の説は姑《しばら》く差措《さしお》き、近い親類の者までも西洋は大嫌《だいきらい》で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処《そこ》に行《いっ》て何か話をして、序《ついで》ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛《いいか》けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から叱《しか》られた。「怪《けし》からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする筈《はず》のものだ。ソレに和蘭《オランダ》の学問とは何たる心得《こころえ》違いか、呆返《あきれかえ》った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷《ひや》かして、貴様のような奴《やつ》は負角力《まけずもう》の瘠錣《やせしこ》と云《い》うものじゃと苦々《にがにが》しく睨《にら》み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。迚《とて》も叔父さんに賛成して貰《もら》おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば自《おのず》から口の端《はし》にも出る。出れば狭い所だから直《す》ぐ分る。近処《きんじょ》|辺《あた》りに何処《どこ》となく評判する。平生《へいぜい》私の処に能《よ》く来るお婆《ばば》さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重《やえ》さんと云う人。今でも其《そ》の人の面《かお》を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、或《あ》るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般|先《ま》ずソンナ風《ふう》で、その時の私の身の上を申せば寄辺汀《よるべなぎさ》の捨小舟《すておぶね》、まるで唄《うた》の文句のようだ。

 


母と直談

 

 ソコデ私は独《ひと》り考えた。「是《こ》れは迚《とて》も仕様《しよう》がない。唯《ただ》頼む所は母一人だ。母さえ承知して呉《くれ》れば誰が何と云うても怖い者はないと。ソレカラ私は母にとっくり話した。「おッ母《か》さん。今私が修業して居るのは斯《こ》う云《い》う有様、斯う云う塩梅《あんばい》で、長崎から大阪に行《いっ》て修業して居《お》ります。自分で考えるには、如何《どう》しても修業は出来て何か物になるだろうと思う。この藩に居た所が何としても頭の上《あが》る気遣《きづかい》はない。真《しん》に朽果《くちは》つると云うものだ。どんな事があっても私は中津で朽果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、何卒《どうぞ》私を手放して下さらぬか。私の産れたときにお父ッさんは坊主にすると仰《おっ》しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦《あきら》めて下さい」。その時私が出れば、母と死んだ兄の娘、産れて三つになる女の子と五十有余の老母と唯《ただ》の二人《ふたり》で、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して、「どうぞ二人で留主をして下さい、私は大阪に行くから」と云《いっ》たら、母も中々|思切《おもいき》りの宜《よ》い性質で、「ウム宜《よろ》しい。「アナタさえ左様《そう》云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方《しかた》がない。お前も亦《また》余所《よそ》に出て死ぬかも知れぬが、死生《しにいき》の事は一切言うことなし。何処《どこ》へでも出て行きなさい」。ソコデ母子の間《あいだ》と云うものはちゃんと魂胆《こんたん》が出来て仕舞《しまっ》て、ソレカラ愈《いよい》よ出ようと云うことになる。

 


四十両の借金家財を売る

 

 出るには金の始末をしなければならぬ。その金の始末と云うのは、兄の病気や勤番中の其《そ》れ是《こ》れの入費《にゅうひ》、凡《およ》そ四十両借金がある。この四十両と云《い》うものは、その時代に私などの家に取《とっ》ては途方心ない大借《だいしゃく》。これをこの儘《まま》にして置ては迚《とて》も始末が付かぬから、何でも片付けなければならぬ。如何《どう》しよう。外《ほか》に仕方がない。何でも売るのだ。一切万物売るより外なしと考えて、聊《いささ》か頼みがあると云うのは、私の父は学者であったから、藩中では中々蔵書を持《もっ》て居る。凡そ冊数にして千五百冊ばかりもあって、中には随分世間に類《るい》の少ない本もある。例えば私の名を諭吉と云うその諭の字は天保五年十二月十二日の夜《よ》、私が誕生したその日に、父が多年|所望《しょもう》して居た明律《みんりつ》の上諭条例《じょうゆじょうれい》と云う全部六、七十冊ばかりの唐本《とうほん》を買取《かいとっ》て、大造《たいそう》喜んで居る処に、その夜《よ》男子《なんし》が出生《しゅっしょう》して重ね/″\の喜びと云う所から、その上諭の諭の字を取て私の名にしたと母から聞いた事がある位《くらい》で、随分珍らしい漢書があったけれども、母と相談の上、蔵書を始め一切の物を売却しようと云うことになって、先《ま》ず手近な物から売れるだけ売ろうと云うので、軸物《じくもの》のような物から売り始めて、目ぼしい物を申せば頼山陽《らいさんよう》の半切《はんせつ》の掛物《かけもの》を金《きん》二|分《ぶ》に売り、大雅堂《たいがどう》の柳下人物《りゅうかじんぶつ》の掛物を二両二分、徂徠《そらい》の書、東涯《とうがい》の書もあったが、誠に値《ね》がない、見るに足らぬ。その他はごた/\した雑物《ぞうもつ》ばかり。覚えて居るのは大雅堂《たいがどう》と山陽《さんよう》。刀は天正祐定《てんしょうすけさだ》二尺五寸|拵付《こしらえつき》、能《よ》く出来たもので四両。ソレカラ蔵書だ。中津の人で買う者はありはせぬ。如何《どう》したって何十両と云《い》う金を出す藩士はありはせぬ。所で私の先生、白石《しらいし》と云う漢学の先生が、藩で何か議論をして中津を追出《おいだ》されて豊後の臼杵《うすき》藩の儒者になって居たから、この先生に便《たよ》って行けば売れるだろうと思《おもっ》て、臼杵まで態々《わざわざ》出掛けて行《いっ》て、先生に話をした処が、先生の世話で残らずの蔵書を代金十五両で臼杵藩に買《かっ》て貰《もら》い、先《ま》ず一口《ひとくち》に大金《たいきん》十五両が手に入り、その他有らん限り皿も茶碗も丼も猪口《ちょく》も一切|売《うっ》て、漸《ようや》く四十両の金が揃《そろ》い、その金で借金は奇麗に済《すん》だが、その蔵書中に易経集註《えききょうしっちゅう》十三冊に伊藤東涯先生が自筆で細々《こまごま》と書入《かきいれ》をした見事なものがある。是《こ》れは亡父《ぼうふ》が存命中大阪で買取《かいとっ》て殊《こと》の外《ほか》珍重したものと見え、蔵書目録に父の筆を以《もっ》て、この東涯先生書入の易経十三冊は天下|稀有《けう》の書なり、子孫|謹《つつしん》で福澤の家に蔵《おさ》むべしと、恰《あたか》も遺言のようなことが害いてある。私も之《これ》を見ては何としても売ることが出来ません。是れ丈《だ》けはと思うて残して置《おい》たその十三冊は今でも私の家にあります。夫《そ》れと今に残って居るのは唐焼《とうやき》の丼が二つある。是れは例の雑物|売払《うりはらい》のとき道具屋が直《ね》を付けて丼二つ三分《さんぶん》と云うその三分とは中津の藩札《はんさつ》で銭《ぜに》にすれば十八|文《もん》のことだ。余り馬鹿々々しい、十八文ばかり有《あっ》ても無くても同じことだと思うて売らなかったのが、その後四十何年無事で、今は筆洗《ふであらい》になって居るのも可笑《おか》しい。

 


築城書を盗写す

 

 夫《そ》れは夫れとして、私が今度不幸で中津に帰《かえっ》て居るその間《あいだ》に一つ仕事をしました、と云《い》うのはその時に奥平壹岐《おくだいらいき》と云う人が長崎から帰て居たから、勿論《もちろん》私は御機嫌伺《ごきげんうかがい》に出なければならぬ。或日《あるひ》奥平の屋敷に推参《すいさん》して久々の面会、四方山《よもやま》の話の序《ついで》に、主人公が一冊の原書を出して、「この本は乃公《おれ》が長崎から持《もっ》て来た和蘭《オランダ》新版の築城書であると云うその書を見た所が、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書、窮理《きゅうり》書の外《ほか》に遂《つい》ぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だと先《ま》ず私は感心しなければならぬ、と云《い》うのはその時は丁度《ちょうど》ペルリ渡来の当分で、日本国中、海防軍備の話が中々|喧《やかま》しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が読《よん》で見たくて堪《たま》らない。けれども是《こ》れは貸せと云《いっ》た所が貸す気遣《きづかい》はない。夫《そ》れからマア色々話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」なんと云《い》うたのには、実に貧書生の胆《きも》を潰《つぶ》すばかり。迚《とて》も自分に買うことは出来ず、左《さ》ればとてゆるりと貸す気遣はないのだから、私は唯《ただ》原書を眺めて心の底で独《ひと》り貧乏を歎息して居るその中に、ヒョイと胸に浮んだ一策を遣《やっ》て見た。「成程《なるほど》是れは結構な原書で御在《ござい》ます。迚も之《これ》を読《よん》で仕舞《しま》うと云うことは急な事では出来ません。責《せ》めては図と目録とでも一通《ひととお》り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶《かな》いますまいかと手軽に触《あた》って見たらば、「よし貸そう」と云て貸して呉《く》れたこそ天与の僥倖《ぎょうこう》、ソレカラ私は家《うち》に持《もっ》て帰《かえっ》て、即刻|鵞筆《がペン》と墨と紙を用意してその原書を初《はじめ》から写《うつし》掛けた。凡《およ》そ二百|頁《ページ》余《よ》のものであったと思う。それを写すに就《つい》ては誰にも言われぬのは勿論《もちろん》、写す処を人に見られては大変だ。家の奥の方に引込《ひきこ》んで一切客に遇《あ》わずに、昼夜|精切《せいぎ》り一杯、根《こん》のあらん限り写した。そのとき私は藩の御用で城の門の番をする勤《つとめ》があって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になれば窃《そっ》と写物《うつしもの》を持出《もちだ》して、朝、城門の明《あ》くまで写して、一目《ひとめ》も眠らないのは毎度のことだが、又この通りに勉強しても、人間世界は壁に耳あり眼《め》もあり、既《すで》に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか云《いっ》て来はしないだろうか、いよ/\露顕《ろけん》すれば唯《ただ》原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕で中々|六《むず》かしくなるだろうと思えば、その心配は堪《たま》らない。生れてから泥坊《どろぼう》をしたことはないが、泥坊の心配も大抵《たいてい》こんなものであろうと推察しながら、とう/\写し終りて、図が二枚あるその図も写して仕舞《しまっ》て、サア出来上った。出来上ったが読合《よみあわ》せに困る。是《こ》れが出来なくては大変だと云《い》うと、妙な事もあるもので、中津に和蘭《オランダ》のスペルリングの読めるものが只《たっ》た一人《ひとり》ある。それは藤野啓山《ふじのけいざん》と云う医者で、この人は甚《はなは》だ私の処に縁がある、と云うのは私の父が大阪に居る時に、啓山が医者の書生で、私の家《うち》に寄宿して、母も常に世話をして遣《やっ》たと云う縁故からして、固《もと》より信じられる人に違いないと見抜いて、私は藤野の処に行て、「大《だい》秘密をお前に語るが、実は斯《こ》う/\云うことで、奥平の原書を写して仕舞た。所が困るのはその読合せだが、お前はどうか原書を見て居て呉《く》れぬか、私が写したのを読むから。実は昼|遣《や》りたいが、昼は出来られない。ヒョッと分《わか》っては大変だから、夜分私が来るから御苦労だが見て居て呉れよと頼んだら、藤野が宜《よろ》しいと快く請合《うけあ》って呉れて、ソレカラ私は其処《そこ》の家に三晩か四晩|読合《よみあわ》せに行《いっ》て、ソックリ出来て仕舞《しまっ》た。モウ連城《れんじょう》の璧《たま》を手に握ったようなもので、夫《そ》れから原書は大事にしてあるから如何《どう》にも気遣《きづかい》はない。しらばくれて奥平壹岐《おくだいらいき》の家に行て、「誠に難有《ありがと》うございます。お蔭で始めてこんな兵書を見ました。斯《こ》う云《い》う新舶来の原書が翻訳にでもなりましたら、嘸《さぞ》マア海防家には有益の事でありましょう。併《しか》しこんな結構なものは貧書生の手に得らるゝものでない。有難《ありがと》うございました。返上致しますと云《いっ》て奇麗に済んだのは嬉しかった。この書を写すに幾日かゝったか能《よ》く覚えないが、何でも二十日以上三十日足らずの間《あいだ》に写して仕舞《しま》うて、原書の主人に毛頭《もうとう》疑うような顔色《がんしょく》もなく、マンマとその宝物《ほうもつ》の正味《しょうみ》を偸《ぬす》み取《とっ》て私の物にしたのは、悪漢《わるもの》が宝蔵に忍び入《いっ》たようだ。

 


医家に砲術修業の願書

 

 その時に母が、「お前は何をするのか。そんなに毎晩|夜《よ》を更《ふ》かして碌《ろく》に寝《ね》もしないじゃないか。何の事だ。風邪《かぜ》でも引くと宜《よ》くない。勉強にも程のあったものだと喧《やかま》しく云う。「なあに、おッ母《か》さん、大丈夫だ。私は写本をして居るのです。この位《くらい》の事で私の身体《からだ》は何ともなるものじゃない。御安心下さい。決して煩《わずら》いはしませぬと云うたことがありましたが、ソレカラ愈《いよい》よ大阪に出ようとすると、茲《ここ》に可笑《おか》しい事がある。今度出るには藩に願書を出さなければならぬ。可笑しいとも何とも云いようがない。是《こ》れまで私は部屋住《へやずみ》だから外《ほか》に出るからと云て届《とどけ》も願《ねがい》も要《い》らぬ、颯々《さっさつ》と出入《でいり》したが、今度は仮初《かりそめ》にも一家の主人であるから願書を出さなければならぬ。夫《そ》れから私は兼《かね》て母との相談が済んで居《い》るから、叔父《おじ》にも叔母《おば》にも相談は要りはしない。出抜《だしぬ》けに蘭学の修業に参りたいと願書を出すと、懇意なその筋の人が内々《ないない》知らせて呉《く》れるに、「それはイケない。蘭学修業と云《い》うことは御家《おいえ》に先例のない事だと云う。「そんなら如何《どう》すれば宜《よ》いかと尋れば、「左様《さよう》さ。砲術修業と書いたならば済むだろうと云う。「けれども緒方《おがた》と云えば大阪の開業医師だ。お医者様の処に鉄砲を習いに行くと云うのは、世の中に余り例のない事のように思われる。是《こ》れこそ却《かえっ》て不都合な話ではござらぬか。「イヤ、それは何としても御例《ごれい》のない事は仕方がない。事実相違しても宜《よろ》しいから、矢張《やは》り砲術修業でなければ済まぬと云うから、「エー宜しい。如何《どう》でも為《し》ましょうと云《いっ》て、ソレカラ私儀《わたくしぎ》大阪|表《おもて》緒方|洪庵《こうあん》の許《もと》に砲術修業に罷越《まかりこ》したい云々《うんぬん》と願書を出して聞済《ききずみ》になって、大阪に出ることになった。大抵《たいてい》当時の世の中の塩梅式《あんばいしき》が分るであろう、と云うのは是《こ》れは必ずしも中津一藩に限らず、日本国中|悉《ことごと》く漢学の世の中で、西洋流など云うことは仮初《かりそめ》にも通用しない。俗に云う鼻掴《はなつま》みの世の中に、唯《ただ》ペルリ渡来の一条が人心を動かして、砲術だけは西洋流儀にしなければならぬと、云《い》わば一線《いっせん》の血路《けつろ》が開けて、ソコで砲術修業の願書で穏《おだやか》に事が済んだのです。

 


母の病気

 

 願《ねがい》が済んで愈《いよい》よ船に乗《のっ》て出掛けようとする時に母の病気、誠に困りました。ソレカラ私は一生懸命、此《こ》の医者を頼み彼《あ》の医者に相談、様々に介抱した所が虫だと云《い》う。虫なれぼ如何《いか》なる薬が一番の良剤かと医者の話を聞くと、その時にはまだサントニーネと云うものはない、セメンシーナが妙薬だと云う。この薬は至極《しごく》価《あたい》の高い薬で田舎の薬店には容易にない。中津に只《たっ》た一軒ある計《ばか》りだけれども、母の病気に薬の価《ね》が高いの安いのと云《いっ》て居《お》られぬ。私は今こそ借金を払った後《あと》でなけなしの金を何でも二朱《にしゅ》か一歩《いちぶ》出して、そのセメンシーナを買《かっ》て母に服用させて、其《そ》れが利《き》いたのか何か分《わか》らぬ、田舎《いなか》医者の言うことも固《もと》より信ずるに足らず、私は唯《ただ》運を天に任せて看病大事と昼夜番をして居ましたが、幸《さいわい》に難症でもなかったと見えて日数《ひかず》凡《およ》そ二週間ばかりで快くなりましたから、愈《いよい》よ大阪へ出掛けると日を定《き》めて、出立《しゅったつ》のとき別《わかれ》を惜しみ無事を祈って呉《く》れる者は母と姉とばかり、知人朋友、見送《みおくり》は扨置《さてお》き見向く者もなし、逃げるようにして船に乗りましたが、兄の死後、間《ま》もなく家財は残らず売払《うりはろ》うて諸道具もなければ金もなし、赤貧《せきひん》洗うが如《ごと》くにして、他人の来て訪問《おとずれ》て呉れる者もなし、寂々寥々《せきせきりょうりょう》、古寺《ふるでら》見たような家に老母と小さい姪《めい》とタッタ二人残して出て行くのですから、流石《さすが》磊落《らいらく》書生も是《こ》れには弱りました。

 


先生の大恩、緒方の食客となる

 

 船中無事大阪に着《つい》たのは宜《よろ》しいが、唯《ただ》生きて身体《からだ》が着《つい》た計《ばか》りで、扨《さ》て修業をすると云《い》う手当は何もない。ハテ如何《どう》したものかと思《おもっ》た所が仕方《しかた》がない。何《なに》しろ先生の処へ行《いっ》てこの通り言おうと思て、夫《それ》から、大阪|着《ちゃく》はその歳の十一月頃と思う、その足で緒方《おがた》へ行て、「私は兄の不幸、斯《こ》う/\云う次第で又《また》出て参りましたと先《ま》ず話をして、夫から私は先生だからほんとうの親と同じ事で何も隠すことはない、家《うち》の借金の始末、家財を売払うた事から、一切万事何もかも打明《うちあ》けて、彼《か》の原書写本の一条まで真実を話して、「実は斯う云う築城書を盗写《ぬすみうつ》してこの通り持《もっ》て参りましたと云《いっ》た所が、先生は笑《わらっ》て、「爾《そ》うか、ソレは一寸《ちょい》との間《あいだ》に怪《け》しからぬ悪い事をしたような又|善《よ》い事をしたような事じゃ。何は扨置《さてお》き貴様は大造《たいそう》見違えたように丈夫になった。「左様《さよう》で御在《ござい》ます。身体《からだ》は病後ですけれども、今歳《ことし》の春|大層《たいそう》御厄介になりましたその時の事はモウ覚えませぬ。元の通り丈夫になりました。「それは結構だ。ソコデお前は一切|聞《きい》て見ると如何《いかに》しても学費のないと云うことは明白に分ったから、私が世話をして遣《や》りたい、けれども外《ほか》の書生に対して何かお前一人に贔屓《ひいき》するようにあっては宜《よ》くない。待て/\。その原書は面白い。就《つい》ては乃公《おれ》がお前に云付《いいつ》けてこの原書を訳させると、斯《こ》う云《い》うことに仕《し》よう、そのつもりで居《い》なさいと云《いっ》て、ソレカラ私は緒方の食客生《しょっかくせい》になって、医者の家《うち》だから食客生と云うのは調合所の者より外《ほか》にありはしませぬが、私は医者でなくて只《ただ》飜訳と云う名義で医家の食客生になって居るのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に飜訳はしてもしなくても宜《よ》いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を飜訳して仕舞《しま》いました。

 


書生の生活酒の悪癖

 

 私は是《こ》れまで緒方の塾に這入《はい》らずに屋敷から通《かよ》って居たのであるが、安政三年の十一月頃から塾に這入《はいっ》て内《ない》塾生となり、是れが抑《そもそ》も私の書生生活、活動の始まりだ。元来緒方の塾と云うものは真実日進々歩主義の塾で、その中に這入て居る書生は皆活溌|有為《ゆうい》の人物であるが、一方から見れば血気の壮年、乱暴書生ばかりで、中々|一筋縄《ひとすじなわ》でも二筋縄でも始末に行かぬ人物の巣窟《そうくつ》、その中に私が飛込《とびこん》で共に活溌に乱暴を働いた、けれども又|自《おのず》から外《ほか》の者と少々違って居ると云うこともお話しなければならぬ。先《ま》ず第一に私の悪い事を申せば、生来《せいらい》酒を嗜《たしな》むと云うのが一大欠点、成長した後《のち》には自《みず》からその悪い事を知《しっ》ても、悪習|既《すで》に性《せい》を成して自《みず》から禁ずることの出来なかったと云うことも、敢《あえ》て包み隠さず明白に自首します。自分の悪い事を公《おおや》けにするは余り面白くもないが、正味《しょうみ》を言わねば事実談にならぬから、先《ま》ず一《ひ》ト通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。抑《そもそ》も私の酒癖《しゅへき》は、年齢の次第に成長するに従《したがっ》て飲《のみ》覚え、飲慣れたと云《い》うでなくして、生《うま》れたまゝ物心《ものごころ》の出来た時から自然に数寄《すき》でした。今に記憶して居《い》る事を申せば、幼少の頃、月代《さかいき》を剃《そ》るとき、頭の盆《ぼん》の窪《くぼ》を剃ると痛いから嫌がる。スルト剃《そっ》て呉《く》れる母が、「酒を給《た》べさせるから此処《ここ》を剃らせろと云《い》うその酒が飲みたさ計《ばか》りに、痛いのを我慢して泣かずに剃らして居た事は幽《かすか》に覚えて居ます。天性の悪癖、誠に愧《は》ずべき事です。その後、次第に年を重ねて弱冠に至るまで、外《ほか》に何も法外な事は働かず行状は先《ま》ず正しい積《つも》りでしたが、俗に云う酒に目のない少年で、酒を見ては殆《ほと》んど廉恥《れんち》を忘れるほどの意気地《いくじ》なしと申して宜《よろ》しい。


 ソレカラ長崎に出たとき、二十一歳とは云《い》いながらその実は十九歳余り、マダ丁年《ていねん》にもならぬ身で立派な酒客《しゅかく》、唯《ただ》飲みたくて堪《たま》らぬ。所が兼《かね》ての宿願を達して学問修業とあるから、自分の本心に訴えて何としても飲むことは出来ず、滞留一年の間《あいだ》、死んだ気になって禁酒しました。山本先生の家《うち》に食客《しょっかく》中も、大きな宴会でもあればその時に盗んで飲むことは出来る。又|銭《ぜに》さえあれば町に出て一寸《ちょい》と升《ます》の角《すみ》から遣《や》るのも易《やす》いが、何時《いつ》か一度は露顕《ろけん》すると思《おもっ》て、トウ/\辛抱《しんぼう》して一年の間《あいだ》、正体を現わさずに、翌年の春、長崎を去《さっ》て諫早《いさはや》に来たとき始めてウント飲んだ事がある。その後|程経《ほどへ》て文久元年の冬、洋行するとき、長崎に寄港して二日ばかり滞在中、山本の家を尋ねて先年中の礼を述べ、今度洋行の次第を語り、そのとき始めて酒の事を打明《うちあ》け、下戸《げこ》とは偽《いつわ》り実は大酒飲《おおざけのみ》だと白状して、飲んだも飲んだか、恐ろしく飲んで、先生夫婦を驚かした事を覚えて居ます。

 


血に交わりて赤くならず

 

 この通り幼少の時から酒が数寄《すき》で酒の為《た》めには有《あ》らん限りの悪い事をして随分不養生も犯《おか》しましたが、又一方から見ると私の性質として品行は正しい。是《こ》れだけは少年時代、乱暴書生に交《まじわ》っても、家を成して後《のち》、世の中に交際しても、少し人に変って大きな口が利《き》かれる。滔々《とうとう》たる濁水《どろみず》社会にチト変人のように窮屈なようにあるが、左《さ》ればとて実際|浮気《うわき》な花柳談《かりゅうだん》と云《い》うことは大抵《たいてい》事細《ことこまか》に知《しっ》て居る。何故《なぜ》と云うに他人の夢中になって汚ない事を話して居るのを能《よ》く注意して聞《きい》て心に留《と》めて置くから、何でも分らぬことはない。例えば、私は元来|囲碁《いご》を知らぬ、少しも分らないけれども、塾中の書生仲間に囲碁が始まると、ジャ/″\張《ば》り出《で》て巧者《こうしゃ》なことを云《いっ》て、ヤア黒のその手は間違いだ、夫《そ》れ又やられたではないか、油断をすると此方《こっち》の方が危《あぶな》いぞ、馬鹿な奴《やつ》だあれを知らぬかなどゝ、宜《い》い加減に饒舌《しゃべ》れば、書生の素人《しろうと》の拙《へた》囲碁《ご》で、助言《じょげん》は固《もと》より勝手次第で、何方《どっち》が負けそうなと云《い》う事は双方の顔色《かおいろ》を見て能《よ》く分《わか》るから、勝つ方の手を誉めて負ける方を悪くさえ云えば間違いはない。ソコデ私は中々囲碁が強いように見えて、「福澤一番|遣《や》ろうかと云われると、「馬鹿云うな、君達を相手にするのは手間潰《てまつぶ》しだ、そんな暇《ひま》はないと、高くとまって澄《すま》し込んで居るから、いよ/\上手《じょうず》のように思われて凡《およ》そ一年ばかりは胡摩化《ごまか》して居たが、何かの拍子《ひょうし》にツイ化《ばけ》の皮が現われて散々《さんざん》罵《のの》しられたことがある、と云うようなもので、花柳社会の事も他人の話を聞きその様子を見て大抵こまかに知《しっ》て居る、知て居ながら自分一身は鉄石《てっせき》の如《ごと》く大丈夫である。マア申せば血に交わりて赤くならぬとは私の事でしょう。自分でも不思議のようにあるが、是《こ》れは如何《どう》しても私の家の風《ふう》だと思います。幼少の時から兄弟五人、他人まぜずに母に育てられて、次第に成長しても、汚ない事は仮初《かりそめ》にも蔭《かげ》にも日向《ひなた》にも家の中で聞《きい》たこともなければ話した事もない。清浄《しょうじょう》潔白、自《おのず》から同藩普通の家族とは色《いろ》を異《こと》にして、ソレカラ家を去《さっ》て他人に交わっても、その風《ふう》をチャント守《まもっ》て、別に慎《つつし》むでもない、当然《あたりまえ》な事だと思《おもっ》て居た。ダカラ緒方の塾に居るその間《あいだ》も、遂《つい》ぞ茶屋遊《ちゃやあそび》をするとか云《い》うような事は決してない、と云いながら前《まえ》にも云う通り何も偏屈で夫《そ》れを嫌って恐れて逃げて廻って蔭で理屈らしく不平な顔をして居ると云うような事も頓《とん》としない。遊廓の話、茶屋の話、同窓生と一処《いっしょ》になってドシ/″\話をして問答して、而《そう》して私は夫れを又|冷《ひや》かして、「君達は誠に野暮《やぼ》な奴だ。茶屋に行《いっ》てフラレて来ると云うような馬鹿があるか。僕は登楼《とうろう》は為《し》ない。為ないけれども、僕が一度《ひとた》び奮発して楼に登れば、君達の百倍|被待《もて》て見せよう。君等のようなソンナ野暮な事をするなら止《よ》して仕舞《しま》え。ドウセ登楼などの出来そうな柄《がら》でない。田舎者《いなかもの》めが、都会に出て来て茶屋遊の ABC[#「ABC」は斜体] を学んで居るなんて、ソンナ鈍いことでは生涯役に立たぬぞと云うような調子で哦鳴《がな》り廻って、実際に於《おい》てその哦鳴る本人は決して浮気でない。ダカラ人が私を馬鹿にすることは出来ぬ。能《よ》く世間にある徳行の君子なんて云う学者が、ムヅ/\してシント考えて、他人の為《す》ることを悪い/\と心の中で思て不平を呑《のん》で居る者があるが、私は人の言行を見て不平もなければ心配もない、一緒に戯《たわぶ》れて洒蛙々々《しゃあしゃあ》として居るから却《かえっ》て面白い。

 


書生を懲らしめる

 

 酒の話は幾《いく》らもあるが、安政二年の春、始めて長崎から出て緒方の塾に入門したその即日《そくじつ》に、在塾の一書生が始めて私に遇《あっ》て云《い》うには、「君は何処《どこ》から来たか。「長崎から来たと云《い》うのが話の始まりで、その書生の云うに、「爾《そ》うか、以来は懇親にお交際《つきあい》したい。就《つい》ては酒を一献《いっこん》酌《く》もうではないかと云うから、私が之《これ》に答えて、「始めてお目に掛《かかっ》て自分の事を云うようであるが、私は元来の酒客《しゅかく》、然《し》かも大酒《たいしゅ》だ。一献酌もうとは有難《ありがた》い、是非《ぜひ》お供《とも》致《いた》したい、早速《さっそく》お供致したい。だが念の為《た》めに申して置くが、私には金はない、実は長崎から出て末たばかりで、塾で修業するその学費さえ甚《はなは》だ怪しい。有るか無いか分らない。矧《いわん》や酒を飲むなどゝ云う金は一銭もない。是《こ》れだけは念の為めにお話して置くが、酒を飲みにお誘《さそい》とは誠に辱《かたじけ》ない。是非お供致そうと斯《こ》う出掛けた。所がその書生の云うに、「そんな馬鹿げた事があるものか、酒を飲みに行けば金の要《い》るのは当然《あたりまえ》の話だ。夫《そ》ればかりの金のない筈《はず》はないじゃないかと云う。「何と云われても、ない金はないが、折角《せっかく》飲みに行こうと云うお誘だから是非行きたいものじゃと云うのが物分《ものわか》れでその日は仕舞《しま》い、翌日も屋敷から通って塾に行てその男に出遇《であ》い、「昨日のお話は立消《たちぎえ》になったが、如何《どう》だろうか。私は今日も酒が飲みたい連れて行《いっ》て呉《く》れないか、どうも行きたいと此方《こっち》から促《うなが》した処が、馬鹿|云《い》うなと云《い》うような事で、お別れになって仕舞《しまっ》た。


 ソレカラ一月《ひとつき》経《た》ち二月《ふたつき》、三月《みつき》経って、此方《こっち》もチャント塾の勝手を心得て、人の名も知れば顔も知ると云うことになって当り前に勉強して居る。一日《あるひ》その今の男を引捕《ひっつか》まえた。引捕まえて面談、「お前は覚えて居《い》るだろう、乃公《おれ》が長崎から来て始めて入門したその日に何と云《いっ》た、酒を飲みに行こうと云たじゃないか。その意味は新入生と云うものは多少金がある、之《これ》を誘出《さそいだ》して酒を飲もうと斯《こ》う云う考《かんがえ》だろう。言わずとも分《わかっ》て居る。彼《あ》の時に乃公が何と云た、乃公は酒は飲みたくて堪《たま》らないけれども金がないから飲むことは出来ないと刎付《はねつ》けて、その翌日は又|此方《こっち》から促した時に、お前は半句の言葉もなかったじゃないか。能《よ》く考えて見ろ。憚《はばか》り乍《なが》ら諭吉だからその位《くらい》に強く云たのだ。乃公はその時には自《みず》から決する処があった。お前が愚図々々《ぐずぐず》云うなら即席に叩倒《たたきたお》して先生の処に引摺《ひきずっ》て行《いっ》て遣《や》ろうと思ったその決心が顔色《がんしょく》に顕《あらわ》れて怖かったのか何か知らぬが、お前はどうもせずに引込《ひきこ》んで仕舞《しまっ》た。如何《いか》にしても済まない奴《やつ》だ。斯う云う奴のあるのは塾の為《た》めには獅子《しし》身中《しんちゅう》の虫と云うものだ。こんな奴が居て塾を卑劣にするのだ。以来新入生に遇《あっ》て仮初《かりそめ》にも左様《さよう》な事を云うと、乃公は他人の事とは思わぬぞ。直《す》ぐにお前を捕《つか》まえて、誰とも云わず先生の前に連れて行て、先生に裁判して貰《もら》うが宜《よろ》しいか。心得て居ろと酷《ひど》く懲《こら》しめて遣《やっ》た事があった。

 

 

塾長になる

 

 その後私の学問も少しは進歩した折柄《おりから》、先輩の人は国に帰る、塾中無人にて遂《つい》に私が塾長になった。扨《さて》塾長になったからと云《いっ》て、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、唯《ただ》塾中一番|六《むず》かしい原書を会読《かいどく》するときその会頭《かいとう》を勤める位《くらい》のことで、同窓生の交際《つきあい》に少しも軽重《けいじゅう》はない。塾長殿も以前の通りに読書勉強して、勉強の間《あいだ》にはあらん限りの活動ではないどうかと云《い》えば先《ま》ず乱暴をして面白がって居ることだから、その乱暴生が徳義を以《もっ》て人を感化するなど云う鹿爪《しかつめ》らしい事を考える訳《わ》けもない。又塾風を善《よ》くすれば先生に対しての御奉公、御恩報《ごおんほう》じになると、そんな老人めいた心のあろう筈《はず》もないが、唯私の本来|仮初《かりそめ》にも弱い者いじめをせず、仮初にも人の物を貪《むさぼ》らず、人の金を借用せず、唯の百文《ひゃくもん》も借りたることはないその上に、品行は清浄《しょうじょう》潔白にして俯仰《ふぎょう》天地に愧《はじ》ずと云う、自《おのず》から外《ほか》の者と違う処があるから、一緒になってワイ/\云て居ながら、マア一口《ひとくち》に云えば、同窓生一人も残らず自分の通りになれ、又自分の通りにして遣《や》ろうと云うような血気の威張《いば》りであったろうと今から思うだけで、決して道徳とか仁義とか又|大恩《だいおん》の先生に忠義とか、そんな奥ゆかしい事は更《さ》らに覚えはなかったのです。併《しか》し何でも爾《そ》う威張り廻って暴れたのが、塾の為《た》めに悪い事もあろう、又|自《おのず》から役に立《たっ》たこともあるだろうと思う。若《も》し役に立て居れば夫《そ》れは偶然で、決して私の手柄でも何でもありはしない。
 


底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
   2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
   1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
   1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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