ダイガクコトハジメ - 緒方洪庵
出身校
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思々斎塾
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参考情報
参考文献・書籍
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緒方洪庵(適々斎)
おがたこうあん
1810(文化7)年8月13日(旧暦・7月14日) - 1863(文久3)年6月10日(旧暦・7月25日)
適塾(適々斎塾)創立、西洋医学所(現・東京大学医学部)第2代頭取、「日本の近代医学の祖」
1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策
江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。
この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。
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1810(文化7)年8月13日(旧暦・7月14日) 緒方洪庵(1歳)、備中国足守藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)と母・キャウの三男として生まれる。
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緒方洪庵(8歳)、天然痘にかかる。
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1824(文政7)年 - 1828(文政11)年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27-31歳)、オランダ陸軍軍医として来日、長崎出島に居住。貿易のため、日本研究も命じられる。当時、外国人は出島を出ることは許可されていなかったが、医師として特別に許される。長崎郊外に私塾・鳴滝塾設立、オランダ医学・自然科学を教える。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・戸塚静海ら50人以上が学ぶ。
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1825(文政8)年 緒方洪庵(16歳)、元服して田上惟章と名乗る。
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1825(文政8)年10月 緒方洪庵(16歳)、大坂蔵屋敷留守居役となった父・佐伯惟因と共に、大坂に出る。
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1826(文政9)年7月 緒方洪庵(17歳)、中天游の私塾・思々斎塾入門。緒方三平と名乗る(のちに判平と改める)。4年間、蘭学・蘭医を学ぶ。
1828(文政11)年9月 シーボルト事件
オランダ商館付医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本から帰国する直前。国外持ち出し厳禁の日本地図が見つかる。これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか、十数名が処分。高橋景保は獄死。
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1831(天保2)年 緒方洪庵(22歳)、江戸へ出て坪井信道に学ぶ。さらに宇田川玄真にも学ぶ。
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1836(天保7)年 緒方洪庵(27歳)、長崎遊学。オランダ人医師ニーマンに医学を学ぶ。この頃より、洪庵と号す。
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1837(天保8)年 大槻俊斎(32歳)、才能を見込んだから手塚良仙より、学資の援助を受ける。長崎遊学。高島秋帆らに学ぶ。緒方洪庵を知る。
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1838(天保9)年3月 緒方洪庵(29歳)、長崎遊学より大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)にて医業開業。同時に、蘭学塾・適塾(適々斎塾)創立。
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緒方洪庵、適塾(適々斎塾)の教育について、学級を設けて蘭学教育を行い、各自の努力によって実力を養うことを方針とする。塾頭の下、塾生は学力に応じて8ないし9級に分けられ、初学者はまずオランダ語の文法『ガランマチカ』、次いで文章論『セインタキス』を学んだ後に原書の会読に加わる。会読の予習のため、塾生は塾に一揃えしかない『ヅーフ』の蘭和辞書を奪い合うようにして勉強。会読の成績により上級へと進み、上席者から順に席次が決まるため、塾生同士の競い合いは熾烈なものとなる。
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緒方洪庵、適塾(適々斎塾)の教育について、蘭書の翻訳にあたって字句の末節に拘泥せず要旨をくみとることを重視。また、会読の原書は医学に限らず物理や化学に関するものもあり、実験に興ずる塾生もいた。各自の自由な学問研究を伸ばす学風があった。
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1838(天保9)年 緒方洪庵(29歳)、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。
1839(天保10)年 蛮社の獄
「蛮社」は洋学仲間の意、「蛮学社中」の略。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判した高野長英、渡辺崋山など蘭学者が捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。
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1843(天保14)年12月 伊東玄朴(43歳)、佐賀藩第10代藩主・鍋島直正(鍋島閑叟)の侍医に。7人扶持で召し抱えられる。
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1844(天保15/弘化元)年 緒方洪庵(35歳)、適塾(適々斎塾)入門者署名帳『姓名録』に記載されただけで636人、このほかに通いの塾生や1843年以前の門人等を含めると、資料で判明している限りでも、子弟は1000名を超えるものと推定される。
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1845(弘化元/弘化2)年 緒方洪庵(36歳)、名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増えた為、瓦町の塾では手狭に。過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入、適塾(適々斎塾)移転。
1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令
漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。
翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。
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1849(嘉永2)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(35歳)、1846(弘化3)年より佐賀藩内で天然痘が大流行。当時不治の病であった天然痘根絶のため、佐賀藩医・伊東玄朴の進言により、長崎出島のオランダ商館を通じて牛痘種痘苗を入手。佐賀城内にて種痘接種。佐賀藩が漢方から蘭方医学へ転換する象徴的な出来事となる。この痘苗は、長崎・佐賀を起点とし、複数の蘭方医の手によって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播。
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1849(嘉永2)年7月20日 伊東玄朴(49歳)、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言。オランダ商館を通じ、入手に成功。この痘苗が長崎から京都・大阪・福井から北陸へと広まる。10月に江戸に運ばれ、関東や東北へ広まる。
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1849(嘉永2)年12月15日(旧暦・11月1日) 緒方洪庵(40歳)、京都に赴き滞在7日、出島の医師オットー・モーニッケが輸入した痘苗を入手。古手町(現・大阪市中央区道修町)に大坂除痘館設立。牛痘種痘法による切痘を始める。
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1849(嘉永2)年12月 佐藤泰然(46歳)、佐倉藩に牛痘を導入。普及に努める。
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1849(嘉永2)年 緒方洪庵(40歳)、日本語で書かれた最初の病理学書『病学通論』を著す。
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1850(嘉永3)年 緒方洪庵(41歳)、郷里の足守藩より要請、足守除痘館設立。切痘を施す。牛痘種痘法は、牛になる等の迷信が障害に。治療費を取らず、患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持、治療を続ける。一方でもぐりの牛痘種痘法者が現れた為、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走。
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1852(嘉永5)年 佐藤泰然(49歳)、日本最初の卵巣嚢腫摘出術などを行う。蘭学の先進医療を行うと共に、医学界を担う人材を育成。佐倉順天堂は大阪の緒方洪庵の適塾(適々斎塾)とならぶ有名蘭学塾に。「日新の医学、佐倉の林中から生ず」
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緒方惟準(12歳)、緒方洪庵の命により、弟・緒方平三(後に惟孝)と共に大聖寺の渡辺卯三郎に学ぶ。漢学が主、蘭学が従の教育を受けるも、蘭学専念の想い強く。洋学館長・伊藤慎蔵の下に走る。弟と共に勘当される。3年後、「勘気免ぜられて帰坂の恩命を蒙る」。
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1855(安政2)年 福澤諭吉(21歳)、学問の上達を妬む奥平壱岐の姦計により、中津へ呼び戻されそうになるも、帰藩の意なし。長崎から大坂を経て、江戸へ出る計画を強行。大坂堂島浜の豊前国中津藩蔵屋敷に務める兄・福澤三之助を訪ねる。「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶことに。中津藩蔵屋敷に居候しながら、蘭学者・緒方洪庵の下で学ぶことに。3月9日、適塾(適々斎塾)入門。
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1856(安政3)年3月 福澤諭吉(22歳)、腸チフスを患う。緒方洪庵より「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」と告げられ、緒方洪庵の朋友・内藤数馬から処置を施される。体力が回復すると、一時帰藩。
1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令
新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。
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1856(安政3)年 福澤諭吉(22歳)、再び大坂へ。兄・福澤三之助が死去、福澤家の家督を継ぐことに。大坂遊学を諦めきれず、父・福澤百助の蔵書や家財道具を売り払い、借金を完済。母・於順以外の親類から反対されるも、これを押し切り、適塾(適々斎塾)で学ぶ。学費を払う経済力はなく、緒方洪庵の好意により、奥平壱岐から借り受け密かに筆写した築城学の教科書『C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年』を翻訳するという名目で、適塾(適々斎塾)の食客として学ぶことに。
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1857(安政4)年 福澤諭吉(23歳)、最年少で適塾(適々斎塾)第10代塾頭に。オランダ語の原書を読み、あるいは筆写、その記述に従って化学実験、簡易な理科実験などを行う。生来血を見るのが苦手であり、瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さず。
1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立
江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎・伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所(東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎。
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1858(安政5)年6月5日(旧暦・4月24日) 緒方洪庵(49歳)、天然痘予防の活動を幕府が公認。牛痘種痘が免許制に。
1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令
幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。
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1858(安政5)年7月3日 伊東玄朴(58歳)、江戸幕府13代将軍・徳川家定が脚気により重態に。漢方医の青木春岱、遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海と共に幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用される始まりとなる。
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1858(安政5)年 緒方洪庵(49歳)、コレラ流行、『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を5・6日で書き上げ、出版。100冊を医師に無料配布。
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1858(安政5)年 緒方洪庵(49歳)、ドイツ人医師フーフェラントの内科医書の翻訳『扶氏経験遺訓』を出版。
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岡見清熙、江戸中津藩邸内にて蘭学塾(慶應義塾大学の源流)設立。蘭学教師について、投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を杉亨二、松木弘安(寺島宗則)に依頼。一方、幕府において勝海舟が台頭。大砲も判り、勝海舟とも通じる適塾塾頭・福澤諭吉に白羽の矢を立てる。
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1858(安政5)年 福澤諭吉(24歳)、中津藩江戸藩邸に設立された蘭学塾(慶應義塾大学の源流)の講師を任されることに。適塾(適々斎塾)を去る。塾頭後任に、長與專齋を指名。古川正雄(古川節蔵)・原田磊蔵を伴う。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の鳩居堂から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。
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1858(安政5)年 緒方惟準(16歳)、長崎遊学。医学伝習所(後に長崎医学所、現・長崎大学)でポンペ、ボードウィン、クーンラート・ハラタマに師事、オランダ医学を学ぶ。
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1859(安政6)年 福澤諭吉(25歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。蘭学塾が英学塾に転身する契機に。
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福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。蕃書調所へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、蕃書調所の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。
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1860(安政7/万延元)年 緒方洪庵(51歳)、除痘館を適塾(適々斎塾)南(現・大阪市中央区今橋3丁目)に移転。
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1860(安政7/万延元)年 緒方洪庵(51歳)、門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入、英語学習も開始。自身にとどまらず、門人や息子にも英語を学ばせる。柔軟な思考は最後まで衰えなかった。
1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足
種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎。
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1862(文久2)年 緒方洪庵(53歳)、幕府より西洋医学所頭取として出仕要請。健康上の理由から一度は固辞するも、度重なる要請を受けて江戸出仕。奥医師兼西洋医学所第2代頭取に。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。
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1862(文久2)年12月16日 伊東玄朴(62歳)、蘭方医として初めて法印に進み、長春院と号す。名実共に、蘭方医の頂点に立つ。
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1862(文久2)年12月 緒方洪庵(53歳)、法眼に叙せられる。富と名声を得るも、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しむ。さらに、蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じてピストルを購入。
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1863(文久3)年6月10日(旧暦・7月25日) 緒方洪庵(54歳)、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血、窒息により死去。享年54歳。終生、天然痘治療に貢献。「日本の近代医学の祖」といわれる。
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1863(文久3)年7月 松本良順(32歳)、緒方洪庵の後任として、医学所(現・東京大学医学部)第3代頭取就任。適塾(適々斎塾)式を廃止、ポンぺ式に刷新。教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」。適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。
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1867(慶応3)年 古賀謹一郎(52歳)、緒方洪庵の墓碑銘を記す。
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