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ダイガクコトハジメ - 肥田昭作

 

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肥田昭

ひだしょうさく

1842(天保13)年11月25日(旧暦・10月23日) - 1921(大正10)年

慶應義塾教員、大学中助教・大助教・権少丞、大学南校監督兼英学教員、第四大学区第一番中学校学長、文部省准刻課長専務、東京外国語学校校長、東京英語学校校長、第十五銀行副支配人、三菱為替店元締、第百十九国立銀行頭取、播但鉄道取締役、明治生命保険発起人・監査役、東京倉庫発起人・取締役両潤社社長、肥田鉱業合名会社設立・代表社員、明六社社員、交詢社設立協力、慶応義塾評議員

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  • 1842(天保13)年11月25日(旧暦・10月23日) 肥田昭作(1歳)、田安家典医・安井元兆の次男として生まれる。後に、幕臣・肥田浜五郎の婿養子に。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。

  • 1868(慶応4)年 福澤諭吉(34歳)、明治新政府から出仕を求められるも、辞退。以後、官職につかず。翌年1869(明治2)年、帯刀をやめ、平民に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 肥田昭作(27歳)、福澤諭吉が主宰する慶應義塾に入塾。翌年、教員に。

  • 1868(慶応4/明治元)年6月 何礼之(29歳)、明治新政府に出仕。開成所御用掛・訳官に。次いで大阪行きを命じられ、外国事務局・小松清廉(小松帯刀)を補佐する一等訳官に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 何礼之(29歳)、『仮語学所積高』提案。大阪府に舎密局・医学館・語学所から成る大学校設置を計画。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1868(明治元)年10月27日(旧暦・9月12日)、開成所開成学校に改称。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。

  • 1869(明治2)年6月10日(旧暦・5月1日)、大阪城西側大手前旧城番邸跡にて、大阪府所轄の舎密局(大阪舎密局)開校。オランダ人化学教師・ハラタマが教頭に。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1869(明治2)年 何礼之(30歳)大阪洋学校創立を発議・設立。督務に。教鞭を執る傍ら、『経済便蒙』・『西洋法制』など訳出。

  • 1869(明治2)年12月、大阪洋学校、管轄が大阪府より民部省へ移管。兵庫県洋学校を合併。

  • 1870(明治3)年7月 肥田昭作(29歳)、大学中助教に。1月、大助教に。

  • 1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。

  • 1871(明治4)年4月 肥田昭作(30歳)、大学権少丞兼大助教に。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年7月 肥田昭作(30歳)、文部権少丞兼文部大助教に。8月、文部省七等出仕。大学南校監督兼英学教員に。大阪開成所の事務担当。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

  • 1872(明治5)年6月 肥田昭作(31歳)、明治天皇が大阪開成所を臨幸。管理者として迎える。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

  • 1873(明治6)年 肥田昭作(32歳)、文部省用度局長を経て、会計課長兼准刻課長、准刻課長専務に。

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

1873(明治6)年7月 明六社結成

アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直西周西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

  • 1873(明治6)年 肥田昭作(32歳)、初期福澤諭吉門下生の有力者の一人として、古川正雄・秋山恒太郎に続き、明六社社員に。

  • 1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業にと伴い順次廃止。

  • 東京外国語学校、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置(後に英語科が分離)。朝鮮語科を増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。

  • 1874(明治7)年12月 肥田昭作(33歳)、新設の東京英語学校校長兼務。

  • 1876(明治9)年 肥田昭作(35歳)、文部省退官。実業界へ。翌年、第十五銀行開業に先立ち、熊谷武五郎らと共に副支配人に。簿記掛に。

  • 1880(明治13)年 福澤諭吉(46歳)、日本最初の実業家社交クラブ結成を提唱、慶應義塾出身者を中心に、交詢社創立。名称は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来。福澤諭吉を会長に、大隈重信・鍋島直大・後藤象二郎をはじめ華族・官僚・学者・地主・商工業者など参加。

  • 1880(明治13)年 肥田昭作(39歳)交詢社設立に関わる。

  • 1880(明治13)年 肥田昭作(39歳)三菱為替店元締に。為替事業を総括。

1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月 福澤諭吉(46-47歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信伊藤博文・井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考。「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信福澤諭吉慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。

  • 慶應義塾仮憲法』、塾長の選任について、「一、理事委員の協議を以て、現任教員中より一名を選び、之を慶應義塾々長とす。」・「一、教員、役員を定むるは、社頭、塾長の協議に任ず可し。」と定める。

  • 1881(明治14)年 肥田昭作(40歳)、慶應義塾仮理事委員に選出される。

  • 1881(明治14)年 肥田昭作(40歳)、明治生命保険発起人・監査役に。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1885(明治18)年 肥田昭作(44歳)、三菱会社が第百十九国立銀行の経営継承。頭取に。

  • 1887(明治20)年 肥田昭作(46歳)、東京倉庫発起人・取締役会長事務取扱に。

  • 1889(明治22)年8月 福澤諭吉(55歳)、『慶應義塾規約』制定。評議員が選ばれることになり、10月に第1期第1回評議会開催。当規約による塾運用が今日まで続いている。

  • 1889(明治22)年11月 - 1895(明治28)年10月 肥田昭作(48-54歳)慶応義塾評議員に。明治会堂建設や義塾維持資金募集など相談を受け、細倉鉱山への投資を仲介するなど、福澤諭吉と個人的に親交。

  • 1889(明治22)年 肥田昭作(48歳)、鉱山会社・両潤社社長に。高玉金山買収。

  • 1890(明治23)年 肥田昭作(49歳)、日本鉄道理事委員に。

  • 1893(明治26)年7月 肥田昭作(52歳)、播但鉄道取締役に。

  • 1913(大正2)年 肥田昭作(72歳)、肥田鉱業合名会社設立。代表社員に。

  • 1921(大正10)年 肥田昭作(80歳)、死去。享年80歳。

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