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ダイガクコトハジメ - 荘田平五郎

荘田平五郎

 

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荘田平五郎

しょうだへいごろう

1847(弘化4)年11月8日(旧暦・10月1日) - 1922(大正11)年4月30日

臼杵藩学取締、慶應義塾教師、三菱商業学校校長高等商業学校(現・一橋大学)商議委員、三菱工業予備学校設立・所長、東京高等工業学校(現・東京工業大学)商議委員、三菱商会入社、複式簿記を導入して近代経営の基礎を築く、初期三菱の経営戦略を担い、東京海上保険会社・明治生命保険会社ほか設立に関わる、三菱本社支配人、三菱グループ各社経営・役員歴任、「三菱の大番頭」

「荘田平五郎」に関する書籍 [外部]

  • 1847(弘化4)年11月8日(旧暦・10月1日) 荘田平五郎(1歳)、 豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に禄高百石の臼杵藩士で儒者・荘田雅太郎允命の長男として生まれる。幼名、允徳。

  • 荘田平五郎、 臼杵藩校・学古館で学ぶ。抜群の秀才であった。

  • 1867(慶応3)年 荘田平五郎(21歳)、臼杵藩より選抜され江戸へ。青地信敬の塾に入門。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。

  • 1868(慶応4/明治元)年 荘田平五郎(22歳)、 福澤諭吉を訪ねる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 荘田平五郎(22歳)、藩命により、宮川玄水と共に薩摩藩・開成所および洋学局に派遣される。

  • 1869(明治2)年 荘田平五郎(23歳)、薩摩藩・洋学局の講師に。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

  • 1870(明治3)年 荘田平五郎(24歳)、再度の藩命により、江戸へ。念願であった慶應義塾五等試験に合格、入塾。

  • 1871(明治4)年 高島嘉右衛門(40歳)、スイス人カドレー・アメリカ人バラ兄弟など西洋人の教師を雇い、英仏独の3ヶ国語を教授。横浜伊勢山下と入船町に語学私塾・藍謝堂(高島学校)開校。私財3万円を投じ、敷地は一万坪、学生1,000人が収容できる大きな学校であった。福澤諭吉を招聘したが実現せず。代わりに慶應義塾の海老名晋・荘田平五郎小幡甚三郎濱尾新・日原昌造ら高弟を講師に推薦、派遣される。岡倉天心・寺内正毅・本野一郎・宮部金吾・星亨ら人材を輩出。貧しい学生には経済的援助も行う。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1873(明治6)年 荘田平五郎(27歳)、臼杵藩学取締に。慶應義塾にて藩主・稲葉久通を教授。

1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変

征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・桐野利秋・大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通・岩倉具視

・木戸孝允・伊藤博文・黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

閣議において、大隈重信大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

  • 1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。

1874(明治7)年 - 1890(明治23)年 自由民権運動

明治六年政変で征韓論を主張し敗れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが明治政府を下野、征韓派勢力を結集。1874(明治7)年1月12日、愛国公党を結成。1月17日に『民選議員設立建白書』を左院に提出。国会開設の請願を行ったことに始まる政治・社会運動。藩閥政府による専制政治を批判。憲法制定・議会開設・地租軽減・不平等条約撤廃・言論の自由や集会の自由の保障など要求を掲げる。1890(明治23)年の帝国議会開設頃まで続く。

自由民権運動は教育界にも多大に影響。1876(明治9)年、代言人(弁護士)資格試験制度が発足すると、代言人の養成を主目的とする私立法律学校が林立。これら私立法律学校が法学を学ぼうとする法律青年だけでなく、自由民権運動に熱を上げる政治青年の学びの場に。法学教育が同時に政治教育の役割も担うこととなる。特に、明治法律学校(現・明治大学)ほか「権利や自由の重要性」を説くフランス法系法律学校は自由民権運動の牙城に。政府より猜忌の目を以って注視されることに。

  • 1874(明治7)年1月12日 板垣退助(38歳)、『五箇条の御誓文』の「万機公論に決すべし」を根拠に、愛国公党を結成。後藤象二郎・江藤新平らと左院に『民撰議院設立建白書』を提出するも、却下される。

  • 1874(明治7)年4月10日 板垣退助(38歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達・気風の養成・福祉の上進・自由の進捗を目的に政治団体・立志社結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う立志学舎創立。教員に、慶應義塾を卒業した江口高邦・深間内基・矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造・久米弘行・森春吉が駆けつける。慶應義塾と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様な教育を行う。

  • 1874(明治7)年 福澤諭吉(40歳)、明治六年政変で板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下ると、高知の立志学舎慶応義塾門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援。国会開設運動の先頭に立ち、郵便報知新聞に『国会論』と題する社説を掲載。

  • 1874(明治7)年 福澤諭吉(40歳)地下浪人だった岩崎弥太郎と面会、山師ではないと評価。三菱商会に荘田平五郎や豊川良平といった慶應義塾門下を投入。また、後藤象二郎の経営する高島炭鉱を岩崎弥太郎に買い取らせる。​​

  • 1874(明治7)年6月- 福澤諭吉(40歳)、簿記書を翻訳、日本最初の洋式簿記書『帳合之法』を慶應義塾出版局より刊行。

  • 1874(明治7)年 荘田平五郎(28歳)、慶應義塾京都分校に派遣。和魂洋才の学問・儒学と算盤の両刀使いぶりを十分に発揮。

  • 1874(明治7)年 荘田平五郎(28歳)、東京三田に戻り、再び慶應義塾で教鞭をとる。

  • 1875(明治8)年 荘田平五郎(29歳)、嘱望され、三菱商会に入社。有能な人材を実業界に供給するのが慶應義塾の役目と心得ていた福沢諭吉が、岩崎彌太郎を卓抜した実業家として一目も二目も置いていたことが根底に。また、当人も自分の才能を実業界で試したい気持ちが強かった。東京本店勤務、三菱汽船会社規則を策定。

  • 1877(明治10)年 荘田平五郎(31歳)、福澤諭吉『帳合之法』が提唱する複式簿記を採用し、郵便汽船三菱会社簿記法を纏める。これにより、三菱は大福帳経営を脱し、徐々に近代的な経営組織を確立。

  • 1878(明治11)年3月 森下岩楠(27歳)、三菱の商業学校設立を岩崎弥太郎より説かれる。神田錦町に三菱商業学校創立。初代校長に。教官のほとんどを慶應義塾門下生で構成。慶應義塾の分校的教育機関となる。全国から優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育成。

  • 荘田平五郎、初期三菱の経営戦略を担い、東京海上保険会社、明治生命保険会社の設立に関わり、第百十九国立銀行を傘下に入れ、東京倉庫会社を設立。さまざまな分野への進出を図る。

  • 1880(明治13)年 荘田平五郎(34歳)、近藤真琴と共に、海員液済会設立。

  • 1880(明治13)年 荘田平五郎(34歳)、東京府東京市区改正委員に。

  • 1881(明治14)年、教員の馬場辰猪・大石正巳らが自由党の結成に参加。三菱商業学校校舎を使い、夜間教室・明治義塾開設。土佐熱血漢達の自由民権思想普及の場として人気を集めるも、薩長閥の政府から睨まれることに。

  • 1883(明治16)年 荘田平五郎(37歳)、東京商工会員に。

  • 1884(明治17)年、三菱の資金繰りが逼迫、教師の質にばらつき、政府より謀反人の巣窟とみなされるなどを理由に、明治義塾を廃校。跡地に、英吉利法律学校と東京英語学校が創立される。

  • 1885(明治18)年 荘田平五郎(39歳)、日本郵船設立に際し、三菱側代表として創立委員に。理事就任。

  • 1886(明治19)年 荘田平五郎(40歳)、三菱が海運以外の事業を目的に三菱社の名で再発足するに際し、本社支配人として復帰。後に幹事となり、新生三菱を指揮。

  • 1887(明治20)年 中上川彦次郎(34歳)、三菱の荘田平五郎より要請、山陽鉄道創設において初代社長に。

  • 1888(明治21)年 荘田平五郎(42歳)、当時輸入されていた西洋ビールに狼や猫等の動物が用いられていた為、東洋らしさを出す為空想上の動物・麒麟を商標にしようと提案、キリンビールの名付け親に。

  • 1889(明治22)年 荘田平五郎(43歳)、造船業界などの実情視察のため、英国外遊。ロンドンのホテルの部屋で開いた新聞のコラムに「日本政府、陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内の練兵場を売りに出すも買い手つかず」とあるのを発見。「日本にもロンドンのようなオフィス街を建設すべきだ。皇居の目の前の丸の内こそ、その場所だ」と感じ、岩崎弥之助に「丸の内、買い取らるべし」と打電。三菱丸の内の生みの親に。

  • 1891(明治24)年 荘田平五郎(45歳)、筑豊鉄道相談役に。

  • 1891(明治24)年 荘田平五郎(45歳)、臨時博覧会事務局評議員に。

  • 1893(明治26)年 荘田平五郎(47歳)、東京商業会議所特別会員に。

  • 1893(明治26)年 荘田平五郎(47歳)、貨幣制度調査会委員に。

  • 1893(明治26)年 荘田平五郎(47歳)、日本郵船会社本社支配人に。

  • 1895(明治28)年 荘田平五郎(49歳)、1887(明治20)年に国より払い下げられた長崎造船所の大改革に着手。日本郵船が欧州航路の開設を決定した際、社外取締役として新造船6隻のうち1隻を長崎造船所に発注することを主張。

  • 荘田平五郎、1897(明治30)年に造船奨励公布。修繕船から脱皮、新造船を事業の中核にすることを明確に意識した岩崎久弥により、本社管事としての全事業指揮を離され、敢えて長崎造船所第2代所長に任命される。勇躍長崎に赴き、積極的な設備拡充を図り、貨客船や軍艦などその後の日本の大型船建造の道を開拓。

  • 荘田平五郎、三菱において傭使人扶助法・職工救護法など、労務管理制度を確立また、造船における厳しい原価計算の概念を導入。

  • 1896(明治29)年 荘田平五郎(50歳)、東京海上火災保険会社会長に。

  • 1896(明治29)年 荘田平五郎(50歳)、日本勧業銀行設立委員に。

  • 1897(明治30)年 荘田平五郎(51歳)、三菱造船所支配人に。

  • 1898(明治31)年 荘田平五郎(52歳)、農工商高等会議委員に。貨幣法改正に尽力。

  • 1899(明治32)年 荘田平五郎(53歳)、三菱所内に三菱工業予備学校設立、所長に。自前で職工の養成を図る。

  • 1903(明治36)年 荘田平五郎(57歳)、製鉄所商議員に。

  • 1906(明治39)年 荘田平五郎(60歳)、南満州鉄道株式会社設立委員に。

  • 1907(明治40)年 荘田平五郎(61歳)、帝国軍人援護会より、木杯一組を受ける。

  • 1907(明治40)年 荘田平五郎(61歳)、港湾調査会臨時委員に。

  • 1910(明治43)年 荘田平五郎(64歳)、岩崎弥太郎・岩崎弥之助・岩崎久弥の三代を支え、三菱財閥の礎を築き、「三菱の大番頭」と呼ばれる。実業界より引退。豪傑肌の人物が多い明治期の三菱経営者たちの中にあって、唯一の英国風のジェントルマンであり、生涯を通して「組織の三菱」と言われる近代的な組織づくりに貢献する。

  • 1917(大正6)年 荘田平五郎(71歳)、臨時教育会議委員となり、臨時教育会議官に。

  • 荘田平五郎、明治生命保険会社取締役会長の時期もあるが、受刑者の社会復帰事業に協力したり、聖書の勉強をしたり、後進の指導と共に静かな余生をおくる。

  • 1922(大正11)年4月30日 荘田平五郎(76歳)、死去。享年76歳。

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参考情報

参考文献・書籍

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