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ダイガクコトハジメ - 藤原銀次郎

藤原銀次郎

 

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藤原銀次郎

ふじわらぎんじろう

1869(明治2)年7月25日(旧暦・6月17日) - 1960(昭和35)年3月17日

実業家、政治家、松江日報社長兼主筆、戦前三井財閥の中心人物の一人、新生王子製紙社長

を務め「製紙王」と呼ばれる、貴族院勅選議員、米内内閣商工大臣、東條内閣国務大臣、小磯内閣軍需大臣、私財を投じて設立した藤原工業大学を慶應義塾大学に寄付、慶應義塾大学工学部

藤原銀次郎」に関する書籍 [外部]

  • 1869(明治2)年7月25日(旧暦・6月17日) 藤原銀次郎(1歳)、信濃国水内郡平柴村に藤原茂兵衛の三男として生まれる。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶應義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1882(明治15)年3月1日​ 福澤諭吉(48歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、慶應義塾出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ」

  • 藤原銀次郎(16歳)、医者になることを条件に上京するも、医学の道には進まず、慶應義塾入塾。

  • 1889(明治22)年8月 福澤諭吉(55歳)、『慶應義塾規約』制定。評議員が選ばれることになり、10月に第1期第1回評議会開催。当規約による塾運用が今日まで続いている。

  • 1890(明治23)年1月 小泉信吉(38歳)慶應義塾大学部を創設。文学科・理財科・法律科の3科設置。私立の大学として基礎を固める。しかし、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起こり、慶應義塾塾長を短期辞任に追い込まれる。

  • 1890(明治23)年2月 藤原銀次郎(22歳)、慶應義塾正科卒業。卒業後の就職について、福澤諭吉や時事新報幹部・伊藤欽亮、記者・柳荘太郎より新聞業界を勧められる。経営不振に陥り解散寸前となっていた松江日報入社。会社を引き受け、社長兼主筆に。新聞用紙の調達に苦心、結局経営に行き詰まる。新聞記者を辞め、帰京。

  • 1891(明治24)年 中上川彦次郎(38歳)、三井銀行の経営危機。上馨の懇請により、山陽鉄道を辞して三井財閥入り。三井銀行理事に。三井鉱山理事・三井物産理事・三井呉服店調査委員を兼務、三井大元方参事に。益田孝らと共に、三井財閥が政商として抱えていた明治政府との不透明な関係を一掃。不良債権の回収に奔走。一方、王子製紙・鐘淵紡績・芝浦製作所などを傘下に、三井財閥の工業化を推進。

  • 1895(明治28)年 藤原銀次郎(27歳)、同郷で慶應義塾の先輩に当たる鈴木梅四郎に勧められ、三井銀行入行。同期に、池田成彬。大津支店を皮切りに、東京深川出張所長に。営業成績を上げる。

  • 1897(明治30)年 藤原銀次郎(29歳)、三井が経営する富岡製糸場支配人に。工員の賃金を出来高払い制に、工員間の不満解消に努める。

  • 1898(明治31)年 藤原銀次郎(30歳)、王子製紙で経営陣の対立からストライキが起こると、臨時支配人に。富士製紙から熟練工を引き抜き、古参社員の重視などでストライキを収める。

  • 1899(明治32)年 藤原銀次郎(31歳)、三井物産に移る。上海支店次長、同支店長、木材部長などを務める。

  • 1911(明治44)年 藤原銀次郎(43歳)、王子製紙専務に。王子製紙は経営不振で赤字続きであった。三井物産時代の部下・高嶋菊次郎、足立正などを登用。社内の人材発掘にも努める。欧米の機械製造会社と特別契約を結び、機械の購入の代替として王子製紙の海外研修生に対する見学・視察を認めさせる。また、苫小牧の新工場建設を進める。この時、三井銀行から資金を一切調達せず、紙問屋に対して王子の実情を訴え、手形の決済を早くすることで資金を得、苫小牧工場の増設と60%の増資を実現。

  • 1929(昭和4)年 藤原銀次郎(61歳)、貴族院勅選議員に。

  • 1933(昭和8)年 藤原銀次郎(65歳)、王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社合併を実現。資本金1億5000万円、日本国内の市場占有率8割以上を持つ巨大製紙企業を出現せしめる。新生王子製紙社長に就任、「製紙王」の異名を取るように。

  • 1938(昭和13)年 藤原銀次郎(70歳)、高嶋菊次郎に社長職を譲り、会長に。

  • 1938(昭和13)年 藤原銀次郎(70歳)、私財800万円を投じ、人材育成を目指して横浜に藤原工業大学設立。

  • 1940(昭和15)年 藤原銀次郎(72歳)、米内光政内閣にて商工大臣に。

  • 1941(昭和16)年 藤原銀次郎(73歳)、産業設備営団総裁に。

  • 1942(昭和17)年 藤原銀次郎(74歳)、海軍軍政顧問に。

  • 1942(昭和17)年 藤原銀次郎(74歳)、内閣顧問に。

  • 1943(昭和18)年 藤原銀次郎(75歳)、東條英機内閣にて国務大臣に。

  • 1944(昭和19)年 藤原銀次郎(76歳)、東條内閣が倒れ小磯國昭内閣が発足すると、軍需大臣に。

  • 藤原銀次郎、終戦、東條英機・小磯國昭両内閣で閣僚を務めたことより、A級戦犯容疑で出頭命令を受け、巣鴨プリズンに収監。間もなく不起訴に。その後、公職追放。

  • 1951(昭和26)年 藤原銀次郎(83歳)、追放解除、戦争受刑者世話会理事長として、巣鴨プリズン処刑台跡地の永久保存を請願。

  • 1959(昭和34)年 藤原銀次郎(91歳)、数え90歳を記念とし、藤原科学財団設立。同財団に1億円を寄付、藤原賞を設ける。

  • 1960(昭和35)年3月17日 藤原銀次郎(92歳)、死去。享年92歳。

出身校

関連する学校・組織(前史)

  • 藤原工業大学

関連する学校・組織(現代)

関連する教育者

参考情報

参考文献・書籍

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