ダイガクコトハジメ - 西園寺公望
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西園寺公望
さいおんじきんもち
1849(嘉永2)年12月7日(旧暦・10月23日) - 1940(昭和15)年11月24日
公家、参与、新潟府知事、私塾立命館(立命館大学の源流)開設、明治法律学校(現・明治大学)創立協力・講師、京都法政学校(現・立命館大学)創立協力、東洋自由新聞社長、参事院議官、オーストリア=ハンガリー帝国公使、法律取調委員、ドイツ帝国公使、ベルギー公使、賞勲局総裁、民法商法施行取調委員長、法典調査会副総裁、貴族院副議長、文部大臣、京都帝国大学創立準備委員、日本女子大学校(現・日本女子大学)創立委員、外務大臣、立憲政友会創立委員、枢密院議長、立憲政友会第2代総裁、内閣総理大臣
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1847(弘化4)年3月 仁孝天皇、朝廷内の教育機関再建を目指し、京都御所日御門前に学習所(京都学習院)開講。また、女子教育に向けて学習所女子教科を設ける。
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1849(嘉永2)年12月7日(旧暦・10月23日) 西園寺公望(1歳)、山城国京都に公家清華家の一つ徳大寺家当主・徳大寺公純と妻・末弘斐子の次男として生まれる。幼名、美丸。
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西園寺公望(2歳)、公家清華家・西園寺師季の養子に。家督相続。
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西園寺公望(幼少期~)、学習所(京都学習院)で学ぶ。学問を伊藤猶斎や秋田秋雪に学ぶ一方、京都第一の剣客・戸田栄之進らに剣術を学ぶ。
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西園寺公望(11歳)、御所出仕。祐宮(後に明治天皇)の近習に。近習同僚の岩倉具視と親交。
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西園寺公望、福澤諭吉『西洋事情』を読むなど、世界情勢に関心を持つ。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1868(慶応4/明治元)年1月3日(旧暦・12月9日) 西園寺公望(20歳)、三職の一つ、参与に。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
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1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 西園寺公望(20-21歳)、戊辰戦争にて官軍・山陰道鎮撫総督に。東山道第二軍総督・北陸道鎮撫総督・会津征討越後口大参謀と、各地転戦。
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1868(慶応4/明治元)年1月4日、中川家、新政府軍を率いた山陰道鎮撫総督・西園寺公望に地元有力郷士として従軍。中川小十郎の父・中川禄左衛門、父の実弟・中川武平太、叔父の中川謙二郎・中川百助らが仕える。西園寺公望との強い信頼関係が築かれる。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1868(慶応4/明治元)年 西園寺公望(20歳)、新潟府知事に異動。軍人を志しフランス留学を望んでおり、不本意な転籍に。
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1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、京都に大学校を新設する太政官布告。これにより、漢学所が11月2日(旧暦・9月18日)開講。やや遅れ、1月26日(旧暦・12月14日)に皇学所開講。
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東京奠都、明治新政府により、京都での大学校設立構想は修正。東京の地に昌平坂学問所(昌平黌)を基盤とし、洋学・医学を織り交ぜた高等教育機関を設立する案へと変更。皇学所・漢学所が京都から東京へ移されることに。皇漢両学を教授する大学校の本校に、皇学所出身者が採用される。昌平坂学問所(昌平黌)の漢学(儒学)派と皇学所の国学派が激しく対立。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。
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1869(明治2)年2月 西園寺公望(21歳)、東京に戻る。木戸孝允の薦めにより、開成学校入学。フランス語勉強始める。法制についても学ぶ。
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中川謙二郎、西園寺公望に学才を認められ、共に開成学校で学ぶ機会を得る。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1869(明治2)年 西園寺公望(21歳)、京都御所内私邸に、私塾立命館(立命館大学の源流)開設。「大いに勤王家を養成する」とし、著名な漢学者を迎える。諸藩より100人ほどの塾生が集い、盛況。校舎増築。
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1870(明治3)年1月11日(旧暦・12月10日)、皇学所・漢学所の廃止命令に強く反発。京都留守官が東京の大学校を補完する学校として、独断で旧・皇学所と旧・漢学所を統合した大学校代設置。しかし、東京奠都で多くの公家が京都を去ったことも影響、生徒を十分に集めることができず。皇漢両派の対立も止まず。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年5月23日(旧暦・4月23日) 西園寺公望(22歳)、塾生が集い内外時事問題を議論する場となった私塾立命館について、不穏を感じた京都府庁が差止命令。閉塾。背景に、京都留守官が威信をかけ設立した京都大学校代の不振・廃止があり、近隣で活況を呈した私塾立命館が逆鱗に触れたのではないかと推察される。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
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1870(明治3)年8月21日(旧暦・7月25日)、大学校代、明治新政府より不振を理由に廃校、京都府管轄とする命令が下る。府校(現・京都府中学校)に。
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1870(明治3)年12月3日 - 1880(明治13)年10月21日 西園寺公望(22-32歳)、国費にてフランス留学。ソルボンヌ大学入学。フランス・ヨーロッパの知識・思想・文化を吸収。日本人初の学士に。同じくフランス留学生仲間の中江兆民・松田正久・岸本辰雄・光妙寺三郎らと親交。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1876(明治9)年8月 - 1880(明治13)年2月 岸本辰雄(26-30歳)、司法省法学校卒業。宮城浩蔵・小倉久と共に、国費にてフランス留学。パリ法科大学入学。民法典をビュフノワール、ローマ法をポール・ジイド、民事訴訟法をカルソネに学ぶ。フランス法律学士の学位取得。
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1876(明治9)年8月 - 1880(明治13)年2月 宮城浩蔵(25-29歳)、司法省法学校卒業。岸本辰雄・小倉久と共に、国費にてフランス留学。リヨン大学入学。法律学・政治学を学ぶ。フランス法律学士の学位取得。
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1876(明治9)年 矢代操(25歳)、「新入諸生徒ニモ及ハサル」成績で卒業。フランス留学・司法省入省叶わず。法律系出版社・時習社の設立参画。
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1876(明治9)年頃 矢代操(25歳)、北畠道龍・大井憲太郎らの法律学校・講法学舎設立参加。
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1880(明治13)年 矢代操(29歳)、フランス留学より帰国の岸本辰雄・宮城浩蔵を法律学校・講法学舎の講師に招く。内紛、集団退学騒動。退学した学生より新しい法律学校開設を求められる。明治法律学校(現・明治大学)創立の契機に。
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1881(明治14)年1月17日 岸本辰雄(31歳)、有楽町数寄屋橋の旧・島原藩上屋敷にて、司法省法学校同窓の宮城浩蔵・矢代操と共に明治法律学校(現・明治大学)創立。旧鳥取藩主・池田輝知と旧島原藩主・松平忠和の財政的援助を受ける。校長を置かず、3名の合議制で学校運営。矢代操と民法・商法を、宮城浩蔵が刑事法を教授。
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1881(明治14)年 宮城浩蔵(30歳)、岸本辰雄・矢代操と共に明治法律学校(現・明治大学)創立。刑事法教授。旧刑法下、フランス刑法理論の新古典派・折衷主義を日本にもたらすことに大きく貢献、「東洋のオルトラン」と呼ばれる。
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1881(明治14)年 西園寺公望(33歳)、フランス留学中に親交の岸本辰雄・宮城浩蔵らが創立した明治法律学校(現・明治大学)講師に迎えられる。行政法を教授。法論会会長に。
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司法省法学校卒業者による準官学的なフランス法系法律学校として出発するも、自由民権運動の高まりにより急速に野党色を強めていく。フランス革命の影響、権利自由の拡張を主張する学生たちが集い、政府より自由民権の牙城とみなされることに。自由党を支える人材を多数輩出。
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同じくフランス法系法律学校として司法省法学校関係者の支援を受け設立された東京法学社(現・法政大学)と激しく対抗。自由民権色を強めた明治法律学校(現・明治大学)と異なり、「本校に於て政事に関する事項は一切之を講ぜず」を掲げる東京法学社は準官学的な立場を貫く。熾烈な授業料値下げ競争、共倒れ危惧。明治10年代末に至り、和議。ようやく抗争終結。
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フランス留学組の岸本辰雄・宮城浩蔵・西園寺公望・光妙寺三郎ら、留学先で急進的法学者エミール・アコラスの影響を受ける。ボアソナードの怒りを買ったことで、ボアソナード直系・東京法学社(現・法政大学)と対立を深める。
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1881(明治14)年3月18日 西園寺公望(33歳)、自由党結成準備として『東洋自由新聞』創刊。社長に。幹事に松田正久、主筆に中江兆民、編集委員に光妙寺三郎。
1881(明治14)年10月 明治十四年の政変
自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。
政府から追い出され下野した福澤諭吉の慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓・矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。
1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭
自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。
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1881(明治14)年 板垣退助(45歳)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党結成。総理に。
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1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。
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森有礼、憲法調査のため渡欧中の伊藤博文と面会。日本の政治について議論。「日本の発展・反映のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」という教育方針を披歴。この国家教育の方針に関する意見が伊藤博文に強い感銘を与える。「国家のための教育」の文教制度改革のため、帰国を命じられることに。
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1883(明治16)年8月4日 西園寺公望(35歳)、参事院議官に。
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1884(明治17)年3月 森有礼(36-37歳)、伊藤博文の要請により、英国より帰国。参事院議官、文部省御用掛を兼勤。日本の教育制度全般に関する改革に着手。国家至上主義の教育観より、国体教育主義を基本方針とする文教政策を推進。「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず」
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1885(明治18)年 西園寺公望(37歳)、駐オーストリア=ハンガリー帝国公使に。陸奥宗光と親交、共に伊藤博文の腹心の地位を固めていくことに。
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
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1885(明治18)年12月 伊藤博文(45歳)、内閣制度発足。太政大臣として名目上ながら政府頂点に立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。
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森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年6月 西園寺公望(38歳)、帰国。法律取調委員に。
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1887(明治20)年6月 西園寺公望(39歳)、駐ドイツ帝国公使兼ベルギー公使に。9月、ローマ教皇庁派遣の特命全権公使に。
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1887(明治20)年 箕作麟祥(42歳)、法律取調委員会委員に。
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1888(明治21)年 箕作麟祥(43歳)、司法次官に。
1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)
君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より『大日本憲法発布の詔勅』が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。
明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。
版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。
衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。
1889(明治22)年 - 1892(明治25)年 民法典論争
旧民法施行の是非を巡り論争展開。延期派は、「法典が簡明でなく」・「内容もフランス法的に過ぎる」・「拙速主義に依らず、条約改正事業と切り離して慎重に編纂すべき」と主張。断行派は、「形式上の問題は認めるが」・「内容面では十分日本の慣習を尊重している」・「法典断行が条約改正および司法権の確立に資する」と反論。論争の結果、延期派が勝利。ドイツ民法第一草案をはじめとする比較法研究を踏まえ、旧民法の形式上の欠点を克服しながら、現行日本民法典の成立に至る。
1890(明治23)年10月30日 『教育ニ関スル勅語(教育勅語)』
近代日本の教育の基本方針として発布。
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1891(明治24)年9月 西園寺公望(43歳)、帰国。賞勲局総裁に。
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1892(明治25)年8月8日 - 1896(明治29)年9月18日 伊藤博文(52-56歳)、第2次伊藤内閣。朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに清軍と衝突。朝鮮の主権を巡って意見が対立。1892(明治25)年8月、日清戦争勃発。李鴻章との間に下関条約(馬関条約)に調印。朝鮮の独立と遼東半島の割譲などを明記した下関条約がドイツ・フランス・ロシアの三国干渉を引き起こし、遼東半島の放棄を決定。首相辞任。
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1892(明治25)年10月 西園寺公望(44歳)、民法商法施行取調委員長に。
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1893(明治26)年4月13日 西園寺公望(45歳)、法典調査会副総裁に。総裁・伊藤博文に代わり、実質的な現場トップとして民法・商法審査にあたる。
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1893(明治26)年 箕作麟祥(48歳)、法典調査会主査委員に。
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1893(明治26)年 岸本辰雄(43歳)、法典調査会委員に。
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箕作麟祥、民法典論争において、ボアソナード民法典をベースとする旧民法典の実施断行を主張。施行延期が決まった後も、法典調査会主査委員に任命され、新民法典編纂に積極的に関わっていく。1983(明治26)年に法典調査会副総裁を務めた西園寺公望は、総裁・伊藤博文に対し、副総裁を箕作麟祥に譲りたいと願い出ている。
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1893(明治26)年 西園寺公望(45歳)、貴族院副議長に。
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1893(明治26)年7月 中川小十郎(28歳)、帝国大学法科大学政治学科卒業。農商務省入省を希望、東京大学予備門の恩師・木下広次に同省次官・斎藤修一郎を紹介してもらう。態度に憤慨、断り。木下広次の文部省専門学務局局長就任を機に、文部省入省。専門学務局局にて実業教育普及のため学科取り調べに着手。
1894(明治27)年6月25日公布 第一次高等学校令
1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、「高等学校」に改組すること主な目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。改組により、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(京都)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生(総称してナンバースクールと呼ばれる)。
専門学科(法学部・工学部・医学部など)を教授することを原則とする。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。
但し書きで帝国大学に入学する者のための予科を設けることができるとしたが、制度としては従属的な扱いであった大学予科が大いに発展。
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置。高等学校を専門教育機関として機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた帝国大学を改革することはできず。日清戦争後は帝国大学そのものが増設、高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強める。構想は実現せず。
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、病気で辞任の文部大臣・井上毅の後任として、第2次伊藤博文内閣に初入閣。文部大臣に。女子教育発展などに努める。
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、戊辰戦争以来の繋がり、中川家子息・中川小十郎との出会いを喜ぶ。厚遇、文部大臣秘書官に抜擢。
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1894(明治27)年 中川小十郎(29歳)、文部大臣・西園寺公望の秘書官として仕える。以後、首相秘書官・元老私設秘書として終生そばに仕え続ける。
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、高等教育拡張計画立案。東京帝国大学と共に国家の需要に応じる高等教育機関を京都の地に設置する必要を説く。京都帝国大学創立準備委員設置。私設秘書を務める中川小十郎を京都帝国大学初代事務局長に任命。
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1895(明治28)年5月 西園寺公望(47歳)、親友の外務大臣・陸奥宗光が病気のため、外務大臣臨時代理に。次いで、外務大臣に。乙未事変など朝鮮半島問題対応。
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1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。
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1896(明治29)年 広岡浅子(48歳)、土倉庄三郎の紹介により、梅花女学校校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、著書『女子教育』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験より大いに共感。金銭の寄付のみならず、行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者に。
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1896(明治29)年8月 西園寺公望(48歳)、第2次松方正義内閣にて数日間、文部大臣・外務大臣を務めた後に辞任。法典調査会副総裁も辞し、フランスへ。遊学中に虫垂炎、瀕死の重体に。帰国。
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1897(明治30)年1月11日 中川小十郎(32歳)、文部省参事官に。
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1897(明治30)年3月24日 成瀬仁蔵(40歳)、日本女子大学校第一回創立委員会開催。創立委員長に大隈重信。総理大臣・伊藤博文、学習院院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、財界人・渋沢栄一、岩崎弥之助ほか各界の重鎮の多大な支援を受ける。
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1897(明治30)年 中川小十郎(32歳)、女子大学創立に奔走する成瀬仁蔵、自宅寄寓。西園寺公望と共に後援、日本女子大学校創立協力。創立事務幹事嘱託に。
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1897(明治30)年6月28日 木下広次(47歳)、文部省専門学務局長を兼任のまま、新設の京都帝国大学初代総長に。ドイツ流の大学システムを採用、「自由」の学風の基礎を築く。大学寄宿舎設置、舎生に管理・運営を任せる。
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1898(明治31)年1月12日 - 1898(明治31)年6月30日 伊藤博文(58歳)、第3次伊藤博文内閣。6月、衆議院を解散。閣議で政党結成の意思表明、新党結成を唱えるも山縣有朋の反対に遭い首相辞任。
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1898(明治31)年1月-4月 西園寺公望(50歳)、第3次伊藤博文内閣発足、再び文部大臣に。第二次教育勅語作成にあたる。虫垂炎後遺症発病、辞任。
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1898(明治31)年 中川小十郎(33歳)、西園寺公望の文部大臣辞任に伴い、文部省退職を余儀なくされる。失意。日本女子大学校創立を共にした成瀬仁蔵より、広岡浅子の豪商加島屋を紹介される。実業界へ転身。経営不振の加島銀行理事に。再建に尽力。
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1898(明治31)年 外山正一(51歳)、第3次伊藤博文内閣の文部大臣に就任。2ヶ月で退任。
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1899(明治32)年 中川小十郎(34歳)、教育への情熱を捨てきれず。文部官僚時代、創設に関わった京都帝国大学が高等学校卒業生しか受けれ入れることができないことに限界を感じ、私学創立を志す。教学面での協力を京都帝国大学教授陣より得、また設立賛助員として広岡浅子や西園寺公望実弟・住友友純からの大口寄付ほか京都政財界大物の協力を得る。朝日生命保険事務所の一角に、京都法政学校(現・立命館大学)設立事務所創立。
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中川小十郎、加島屋時代に生計のため働く青年たちが高等教育を受ける機会を奪われている現状に官立学校の不備実感。西園寺公望が提唱する「能力と意欲のある人に国として教育機会を与えるべき」実現のため、私学創立決意。
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1900(明治33)年6月5日 中川小十郎(35歳)、鴨川河畔の清輝楼にて京都法政学校開校。初代校長に、富井政章。司法省法学校卒業の京都始審裁判所勤務・山崎恵純が校主を務めるフランス法系私立法律学校・京都法学校を吸収。
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1900(明治33)年 木下広次(50歳)、京都帝国大学初代事務局長・中川小十郎による京都法政学校(現・立命館大学)設立に尽力。京都法政学校は京都帝国大学と「同心一体たるべきことを根本条件とすべき」と述べる。
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1900(明治33)年9月 伊藤博文(60歳)、日本最初の本格的政党内閣を組織した政党、立憲政友会創立。初代総裁に。
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1900(明治33)年10月19日 - 1901(明治34)年6月2日 伊藤博文(60-61歳)、第4次伊藤内閣。立憲政友会メンバーを大勢入れ発足するも、政党としての内実が整わない状態での組閣だったために内部分裂を引き起こす。首相辞任。
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1901(明治34)年4月20日 成瀬仁蔵(44歳)、日本で初めての組織的な私立の女子高等教育機関・日本女子大学校(現・日本女子大学)創立。初代校長に。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」を教育方針に掲げる。設立者総代、大隈重信。
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1903(明治36)年6月 中川小十郎(38歳)、木下広次に請われ、官界復帰。京都帝国大学書記官に。
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1903(明治36)年 西園寺公望(55歳)、伊藤博文の後任指名により立憲政友会第2代総裁に。
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1905(明治38)年4月 中川小十郎(40歳)、西園寺公望に私塾立命館の継承を申し出、快諾される。京都法政学校、立命館に改称。立命館学監に。
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1905(明治38)年 西園寺公望(57歳)、中川小十郎より1869(明治2)年に創立した私塾立命館の継承打診、大変喜ぶ。「立命館」扁額寄贈。
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1906(明治39)年1月7日 - 1908(明治41)年7月4日 西園寺公望(58歳)、第1次桂太郎内閣より禅譲される形で、内閣総理大臣に。第1次西園寺内閣組閣。日露戦争後の南満州撤兵問題・カリフォルニアの排日運動対処・日露協約締結など取り組む。以降、桂太郎と政権を交互に組閣。桂園時代と呼ばれる。
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1906(明治39)年 中川小十郎(41歳)、第1次西園寺内閣組閣、内閣書記官・ 内閣総理大臣秘書官に。
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1908(明治41)年 - 中川小十郎(43-歳)、第1次西園寺内閣総辞職。樺太庁事務官として樺太出向。
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1911(明治44)年8月30日 - 1912(明治45/大正元)年12月5日 西園寺公望(63歳)、第2次西園寺内閣組閣。明治天皇崩御と大正天皇践祚・辛亥革命後の中国対応にあたる。
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1912(明治45/大正元)年9月11日 中川小十郎(47歳)、文部省退職。台湾銀行副頭取に。翌年、頭取に。台湾銀行時代、西園寺公望の後援を得て政治の世界へ。
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1919(大正8)年 西園寺公望(71歳)、第一次世界大戦終結。パリ講和会議主席全権に。
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1940(昭和15)年11月24日 西園寺公望(92歳)、死去。享年92歳。従一位追昇。中川小十郎の発案、立命館大学学祖に。
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