ダイガクコトハジメ - 辰野金吾
出身校
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耐恒寮
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ロンドン大学
関連する学校・組織(前史)
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英吉利法律学校
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明治専門学校
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参考情報
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参考文献・書籍
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年表 | 動画
辰野金吾
たつのきんご
1854(嘉永7)年10月13日(旧暦・8月22日) - 1919(大正8)年3月25日
工学博士、建築家、工部大学校教授、帝国大学工科大学学長、工手学校(現・工学院大学)創立、東京帝国大学工科大学学長、明治専門学校(現・九州工業大学)協議員、早稲田大学建築学科創設顧問、造家学会(現・日本建築学会)設立・会長、辰野金吾建築事務所設立、「日本近代建築の父」
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1854(嘉永7/安政元)年10月13日(旧暦・8月22日) 辰野金吾(1歳)、肥前国(現・佐賀県)唐津藩に下級役人・姫松蔵右衛門と母・オマシの次男として生まれる。姫松家は足軽よりも低い家格であった。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1868(慶応4/明治元)年 辰野金吾(15歳)、叔父の辰野宗安の養子に。
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1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 伊藤博文(30歳)、山尾庸三と共に工部省設立に尽力。鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、お雇い外国人技術者に頼るのではなく日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。初代工部卿として、殖産興業を推進。殖産興業は後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。
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1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 伊藤博文(31歳)、工部省に鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信・灯台・製作・工学・勧工・土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三を工学寮と測量司の長官に。
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1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 山尾庸三(35歳)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成のための工学寮創設。工部権大丞として、初代工学頭に。海外留学制度・国内技能研修制度(修技校)・技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者育成を図る。最終的に工学寮工学校のみの直轄に。
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1871(明治4)年11月 山尾庸三(35歳)、工学寮教師団の人選を依頼していたエドモンド・モレルが急逝。代わって教師団を人選、旧知のヒュー・マセソンに雇用協力を打診、快諾を得る。グラスゴー大学より工学教師ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英が選ばれる。1873(明治6)年、教師団が来日。ヘンリー・ダイアーは当初の小学校と呼ばれる複数学校群設立案を退け、工学校(大学校)設置を立案。
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1873(明治6)年11月、工学寮工学校、基礎課程・専門課程・実地課程(各2年)の3期6年制学校として発足。ヘンリー・ダイアーが初代都検となり、実質的に校長を務めた。土木・機械・造家(建築)・電信・化学・冶金・鉱山・造船の6学科とする学則・カリキュラムが制定される。
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1873(明治6)年 辰野金吾(20歳)、工学寮工学校に第1回生として入学。
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1875(明治8)年 辰野金吾(22歳)、工学寮工学校2年終了後、造船から造家(建築)に転じる。1877(明治10)年着任の外国人教授ジョサイア・コンドルに師事。
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1877(明治10)年1月、工学寮廃止。ボアンヴィル設計による、当時世界で最も優れた工業教育施設とされる本館が完成。工学寮工学校は、工部大学校に改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。
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1880(明治13)年 - 1883(明治16)年 辰野金吾(27-30歳)、英国留学。ジョサイア・コンドルの師であるバージェスの建築事務所で学ぶ。ロンドン大学入学。
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1884(明治17)年 辰野金吾(31歳)、外国人教授ジョサイア・コンドル退官後、工部大学校教授に。
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1884(明治17)年 辰野金吾(31歳)、銀行集会所設計。
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年 辰野金吾(33歳)、帝国大学工科大学教授に。
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1886(明治19)年 辰野金吾(33歳)、造家学会(現・日本建築学会)設立。
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1886(明治19)年 辰野金吾(33歳)、辰野金吾建築事務所設立。その設計の頑丈さから、「辰野堅固」と呼ばれる。
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1887(明治20)年10月 渡辺洪基(40歳)、明治政府が掲げる富国強兵・殖産興業政策の近代化の現場を支える職工育成を目的に。帝国大学工科大学初代工科大学長・古市公威、教授・辰野金吾、片山東熊、藤本寿吉らと共に、築地の地に日本で最古の私立の工業実業学校となる工手学校(現・工学院大学)創立。
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1887(明治20)年 古市公威(34歳)、帝国大学初代総長・渡辺洪基の意向を受け、工手学校(現・工学院大学)創立を推進。
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1887(明治20)年 辰野金吾(34歳)、帝国大学初代総長・渡辺洪基の意向を受け、工手学校(現・工学院大学)創立を推進。
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1887(明治20)年 片山東熊(34歳)、帝国大学初代総長・渡辺洪基の意向を受け、工手学校(現・工学院大学)創立を推進。
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1888(明治21)年 辰野金吾(35歳)、帝国大学工科大学本館設計。
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1888(明治21)年 辰野金吾(35歳)、英吉利法律学校(現・中央大学)校舎設計。
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1896(明治29)年 辰野金吾(43歳)、日本銀行本店設計。
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1898(明治31)年 辰野金吾(45歳)、東京帝国大学工科大学学長に。
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1902(明治35)年 辰野金吾(49歳)、東京帝国大学工科大学辞職。
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1902(明治35)年 辰野金吾(49歳)、第一銀行本店設計。
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1903(明治36)年 辰野金吾(50歳)、葛西萬司と共に、辰野葛西事務所設立。
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1903(明治36)年 辰野金吾(50歳)、日本銀行大阪支店設計。
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1905(明治38)年 辰野金吾(52歳)、片岡安と共に、辰野片岡事務所を開設。
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1906(明治39)年 辰野金吾(53歳)、日本銀行京都支店、第一銀行京都支店設計。
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1907(明治40)年 辰野金吾(54歳)、明治専門学校(現・九州工業大学)協議員に。
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1907(明治40)年 辰野金吾(54歳)、浜寺公園駅設計。
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1908(明治41)年 辰野金吾(55歳)、第一銀行神戸支店設計。
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1909(明治42)年 辰野金吾(56歳)、国技館、日本生命九州支店、奈良ホテル設計。
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1910(明治43)年 辰野金吾(57歳)、国会議事堂の建設をめぐり、建築設計競技の開催主張。
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1911(明治44)年 辰野金吾(58歳)、岩手銀行本店本館、松本健次郎邸設計。
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1912(明治45/大正元)年 辰野金吾(59歳)、朝鮮銀行本店、万世橋駅舎、日本銀行小樽支店、大阪教育生命保険、安田製釘所設計。
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1913(大正2)年 辰野金吾(60歳)、日本銀行福島支店、二十三銀行本店設計。
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1914(大正3)年 辰野金吾(61歳)、中央停車場(現・東京駅)、武雄温泉新館・楼門、日本生命京都支店設計。
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1915(大正4)年 辰野金吾(62歳)、百三十銀行八幡支店設計。
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1917(大正6)年 辰野金吾(64歳)、霊南坂教会旧会堂設計。
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1918(大正7)年 辰野金吾(65歳)、青山学院勝田ホール設計。
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1918(大正7)年 辰野金吾(65歳)、大阪市中央公会堂設計。
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1919(大正8)年 辰野金吾(66歳)、国会議事堂の設計競技、審査員を務める。
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1919(大正8)年3月25日 辰野金吾(66歳)、死去。享年66歳。得意とした赤煉瓦に白い石を帯状にめぐらせるデザインは、ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、辰野式建築と呼ばれる。
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