ダイガクコトハジメ - 辻新次
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辻新次
つじしんじ
1842(天保13)年2月18日(旧暦・1月9日) - 1915(大正4)年11月30日
文部省・教育行政家、日本近代公教育体制の創始・確立に尽力、大学大助教・文部権大丞・文部権大書記官・地方学務局長兼官立学務局長・大臣官房長兼学務局長・初代文部次官ほか文部行政の要職を歴任、南校(現・東京大学)校長、東京外国語学校(現・東京外国語大学)校長事務取扱、仏学会(日仏協会の前身)設立・初代会長、東京仏学校(後に東京法学校と合併、現・法政大学)創立、東京女学館初代館長、明六社、大日本教育会(後に国家教育社と併合、帝国教育会)結成・初代会長、貴族院議員、明治前半期のほとんどの教育制度策定に関わり「文部省の辻か、辻の文部省か」と言われる、「教育社会の第一の元老」・「明治教育界の元勲」・「属吏の大成した巨人」
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1842(天保13)年2月18日(旧暦・1月9日) 辻新次(1歳)、信濃国松本藩・松本城下に松本藩医・辻大渕介如水の次男として生まれる。幼名、鼎吉。伊沢修二と同郷。
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辻新次(12歳)、松本藩校崇教館で朱子学を学ぶ。後に、蘭学を学ぶ。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事お呼び外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
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1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。
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1855(安政2)年9月 古賀謹一郎(40歳)、蘭書翻訳・教育機関を構想。勝海舟(勝麟太郎)らと共に、蕃書調所(東京大学の源流)設立の草案作成。
1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令
新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。
1857(安政4)年2月 蕃書調所発足
洋学所を蕃書調所(東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(中村敬宇・中村正直)、加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。
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1857(安政4)年2月 古賀謹一郎(42歳)、蕃書調所発足。初代頭取に。
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蕃書調所にて、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。
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1858(安政5)年、蕃書調所、幕臣の子弟に限らず、諸藩士の子弟の入学も認める。
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1859(安政6)年、教授手伝に、坪井信良、赤沢寛堂、箕作秋坪が加わる。
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1861(万延2/文久元)年 辻新次(20歳)、江戸に出る。蕃書調所にて、苦学しながらオランダ語・英語・フランス語・西洋兵学を学ぶ。また、蕃書調所精錬所(後に化学局)に入所、大砲の鋳造や火薬製造学ほか化学を学ぶ。
1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置
文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所は昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。
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1862(文久2)年、洋書調所、一ツ橋門外・護持院原(現・神田錦町)の広大な校地に移転。後の開成所・開成学校、東京大学法理文三学部に継承される。
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1863(文久3)年 辻新次(22歳)、開成所精錬方世話心得に。
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1864(文久4/元治元)年 辻新次(23歳)、軍人志望、西洋兵学を実戦で試す絶好の機会として、藩に無断で幕府の武田耕雲齋討伐軍に加わる(天狗党の乱)。藩に呼び戻され、譴責を受ける。
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1866(慶応2)年 辻新次(25歳)、再び江戸へ、開成所に復帰も、火薬製造中の事故で負傷。以後、教育家になることを決心。フランス学の研究に邁進。開成所化学教授手伝並に。下谷練塀町(現・秋葉原)で仏学塾を経営。教え子に古市公威ら。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収
明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
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1868(慶応4/明治元)年 辻新次(27歳)、明治新政府により接収された開成学校の教授試補に。
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1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、京都に大学校を新設する太政官布告。これにより、漢学所が11月2日(旧暦・9月18日)開講。やや遅れ、1月26日(旧暦・12月14日)に皇学所開講。
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東京奠都、明治新政府により、京都での大学校設立構想は修正。東京の地に昌平坂学問所(昌平黌)を基盤とし、洋学・医学を織り交ぜた高等教育機関を設立する案へと変更。皇学所・漢学所が京都から東京へ移されることに。皇漢両学を教授する大学校の本校に、皇学所出身者が採用される。昌平坂学問所(昌平黌)の漢学(儒学)派と皇学所の国学派が激しく対立。
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1868(慶応4/明治元)年12月 加藤弘之(33歳)、明治新政府に出仕、政体律令取調御用掛に。新しい国の政体について研究・提言。『立憲政体略』刊行。
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1869(明治2)年 田中不二麿(25歳)、大学御用掛に。教育行政に携わるように。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1869(明治2)年 辻新次(28歳)、大学少助教に。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1870(明治3)年7月27日 貢進生
太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。
1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。
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1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手。
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江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥・加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年7月 江藤新平(38歳)、文部大輔に。加藤弘之と共に日本の教育制度改革に着手。大学本校・大学南校・大学東校の分裂問題を担当、「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。また、文部省務の大綱を定める。後任の盟友、初代文部卿・大木喬任の下、学制として体系化される。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年10月 田中不二麿(27歳)、文部大丞に。
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1871(明治4)年 辻新次(30歳)、文部省設立に伴い、文部権少丞兼大助教に。以後20年以上にわたって文部行政に従事。日本近代公教育体制の創始・確立に尽力。
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
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大木喬任、文部卿として学制頒布を掲げる中、予算問題で大蔵省・井上馨と対立。
1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団
岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
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1871(明治4)年 - 1873(明治6)年 田中不二麿(27-29歳)、岩倉遣欧使節団に文部省理事官として随行。アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞・調査。また、教育顧問の日本招聘の任務も帯びる。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。
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1872(明治5)年 田中不二麿(28歳)、ワシントン駐在の日本国外交官・森有礼がラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。この長文回答書をダビット・モルレーが執筆。この文書が教育顧問を探していた木戸孝允・田中不二麿の目にとまる。モルレーの招聘を検討。報酬月額600ドル、3年間の予定で契約が交わされることに。翌1873(明治6)年6月に来日。文部省学監として諸藩の教育事務に対する助言・建言を行う。省務を統括していた田中不二麿を助ける。
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文部省学監ダビット・モルレー、東京大学設立、東京女子師範学校および附属幼稚園設立、教育博物館設立、東京学士会院設立、官立諸学校の教則制定・改正などの実現に尽力。1873(明治6)年6月に来日、1878(明治11)年12月の契約満了に伴い、アメリカ帰国。
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1872(明治5)年 濱尾新(24歳)、文部省入省。南校中監事に。後に東京職工学校(現・東京工業大学)設立を共にする手島精一が部下に。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年 辻新次(31歳)、学制公布後、第一大学区大学設立掛に。南校(現・東京大学)校長、東京外国語学校(現・東京外国語大学)校長事務取扱など兼任。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月10日、学制条文追加に伴い、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組。第一大学区開成学校に。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
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1873(明治6)年5月 伴正順(31歳)、文部省六等出仕。開成学校(現・東京大学)校長に。
1873(明治6)年7月 明六社結成
アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
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1873(明治6)年 辻新次(32歳)、明六社に参加。
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1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。
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1873(明治6)年11月4日、学制二編追加により、開成学校より「語学課程」(普通科)が分離独立。開成学校語学課程(英・独・仏の3科)・独逸学教場・外国語学所を統合。東京外国語学校(東京外国語大学の源流)創立、官立最初の語学学校に。翌1874年までに全国に8校の官立外国語学校が設立される。
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東京外国語学校、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置(後に英語科が分離)。朝鮮語科を増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。
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1873(明治6)年末、東京外国語学校、開成学校が教授言語を原則として英語に統一したことにあわせて、東京外国語学校英語科を東京英語学校として独立。
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1874(明治7)年9月27日 田中不二麿(30歳)、文部大輔に。学制実施の実質上の責任者に、教育行政の要衝にあたる。
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1875(明治8)年 田中不二麿(31歳)、太政官博覧会事務局に移管されていた書籍館を文部省にて名称復帰、東京書籍館設立。無料制の公共図書館を実現。
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1875(明治8)年 辻新次(34歳)、東京書籍館(後に帝国図書館)館長事務取扱。
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1876(明治9)年 田中不二麿(32歳)、教育令の起草に先立ち、フィラデルフィア万国博覧会の視察をかねて渡米。アメリカ各州の教育行政の調査を実施。高等教育の主力を私立大学が担う自由主義的なアメリカの教育制度に強い関心を抱く。
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1877(明治10)年 田中不二麿(33歳)、文部省にて学制改正のための委員設置、着手。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。
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1877(明治10)年 濱尾新(29歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。同郷の綜理・加藤弘之を補佐。
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1877(明治10)年 服部一三(27歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。東京大学予備門主幹を兼務。
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1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に第一高等中学校・第一高等学校)設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、東京大学医学部は別に予科を設ける。
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1877(明治10)年6月 辻新次(36歳)、鈴木唯一・佐沢太郎らと汎愛社を設立。『教育新誌』発行。大日本教育会結成に向け動き始める。
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1878(明治11)年9月 辻新次(37歳)、太政官大書記官を兼任。教育令原案が元老院の議に上ると、委員として教育令成立に貢献。
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1879(明治12)年 田中不二麿(35歳)、教育令を建白。学制にある画一的あるいは民生圧迫的な側面を退け、アメリカ式の地方主体による自由主義教育を基調としたものに。6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど、親や町村の教育負担を著しく軽減。一方、学監ダビット・モルレーは『学監考案日本教育方』・『学監考案日本教育法説明書』にて、全国の教育を標準化する公立小中学校の教則。府県学校監督官、教員免許・学位・教科書などに対する管理権限を文部省に認めるなど、学制よりもさらに中央集権的な改正案を示した。これらは1879(明治12)年の教育令にはほとんど反映されなかったが、翌1880(明治13)年の改正教育令に強い影響を与える。
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1879(明治12)年9月 伊藤博文(39歳)、田中不二麿を中心に文部省原案として上申された『日本教育令』について、学区規定削除・文部卿職務権限条文削除など当時の政治情勢を反映して大きく修正。教育議を上奏、教育令発布に。
1879(明治12)年9月29日 教育令公布(自由教育令)
全国を7つの学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置するとした学制について、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学制を廃止。地方の実情を重視するという立場から、文部省が中央集権的教育政策を改め、地方当局に教育行政を大幅に与えることに。アメリカの教育制度をモデルとし、自由教育令とも呼ばれる。その寛容さから学校教育の停滞を招く要因と批判があがる。翌1880(明治13)年、再度国家管理を強化する方向で改正される。
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1880(明治13)年 辻新次(39歳)、地方学務局長兼官立学務局長に。教則取調掛長に。教育令改正に従事。
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1880(明治13)年3月12日 田中不二麿(36歳)、教育令公布(自由教育令)が未就学児増加ならびに学力低下を招いたとして政府内で批判が強まる。司法卿に配置換えに。以後、教育行政から遠ざかる。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1881(明治14)年7月6日 加藤弘之(46歳)、機構改革により新設された東京大学初代総理に就任。
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1881(明治14)年 辻新次(40歳)、普通学務局長に。
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1881(明治14)年7月26日 渋沢栄一(42歳)、東京府会が商法講習所の経費を拒否、廃止を決議。存続の危機に。東京府知事・松田道之、農商務卿・河野敏鎌にはかり、農商務省の補助を得て存続を保つことに。
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1881(明治14)年7月28日 辻新次(40歳)、東京府会で商法講習所(現・一橋大学)の廃止が決議される中、文部省地方学務局長として東京府知事・松田道之宛に商法講習所の存続希望を申し入れ。松田府知事から農商務卿・河野敏鎌宛に補助金下付の要望書を提出、農商務省が支援することで商法講習所の存続が決定する。
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1883(明治16)年 辻新次(42歳)、大日本教育会結成。役員選挙により初代会長に選出。
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1885(明治18)年2月 辻新次(44歳)、内記局長兼学務二局長に。
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
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1885(明治18)年12月 伊藤博文(45歳)、内閣制度発足。太政大臣として名目上ながら政府頂点に立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。
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森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく。
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1885(明治18)年12月 辻新次(44歳)、内閣制度発足、森有礼初代文部大臣就任に伴い、大臣官房長兼学務局長に。
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1885(明治18)年12月 折田彦市(37歳)、森有礼の文部大臣就任による官制改革・人事刷新に伴い、文部省に呼び戻される。文部権大書記官・学務局次長心得に。学校教育制度改革、諸学校令制定作業に加わる。翌年3月、学務局長に。
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1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。
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1886(明治19)年3月 辻新次(45歳)、次官職の新設により、初代文部次官に就任。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に従事。高等中学校候補地選定のための巡視を行う。森有礼初代文部大臣より、「良き女房役」と評される。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。
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1886(明治19)年5月 古市公威(33歳)、初代文部次官・辻新次らと共に仏学会(日仏協会の前身)設立。11月、東京仏学校(後に東京法学校と合併、現・法政大学)創立。初代校長に。
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1886(明治19)年5月 辻新次(45歳)、帝国大学工科大学初代工科大学長に就任した古市公威らと共に、仏学会(日仏協会の前身)設立。初代会長に。11月、東京仏学校(後に東京法学校と合併、現・法政大学)創立。
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1886(明治19)年11月 渋沢栄一(47歳)、帝国大学教授・外山正一の「欧米人に見劣りしないために日本人女性に対する高度な教育が必要」の意見に賛同。内閣総理大臣・伊藤博文の勧説に従い、女子教育奨励会設立に協力。東京女学館の母体に。資金募集など尽力。評議員に。
1886(明治19)年12月 文部省官制
文部省官制制定。「文部大臣ハ教育学問ニ関スル事務ヲ管理ス」と定め、総務局・学務局・編輯局・会計局を置く。また学事視察のため視学官を置く。
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1887(明治20)年 伊藤博文(47歳)、創立委員長となり女子中等教育機関・女子教育奨励会(後に東京女学館)設立。「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指す。創立委員に、渋沢栄一・岩崎弥之助・外山正一ほか、帝国大学英語教授ジェムス・ディクソン、聖公会司教アレキサンダー・ショーなど政財官界の有力者で構成。永田町御用邸(雲州屋敷)を貸与され、校舎に。
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1888(明治21)年 辻新次(47歳)、伊学協会会長に。
1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)
君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より『大日本憲法発布の詔勅』が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。
明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。
版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。
衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。
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1889(明治22)年9月9日 箕作麟祥(44歳)、和仏法律学校(後に東京仏学校と合併、現・法政大学)初代校長に。司法次官の公務の傍ら、校務にあたる。ボアソナードが教頭を務める。民法典論争において、法典実施断行派の拠点に。
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1889(明治22)年 辻新次(48歳)、文部省臨時取調委員長に。
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1890(明治23)年 辻新次(49歳)、帝国議会文部省所管政府委員に。
1890(明治23)年10月30日 『教育ニ関スル勅語(教育勅語)』
近代日本の教育の基本方針として発布。
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1890(明治23)年11月29日 辻新次(49歳)、第1回帝国議会にて、教育予算削減を目的とする高等中学校その他12学校の廃止論、内務省との合併による文部省廃止論などが唱えられる。文部省所管政府委員として矢面に立って防戦、教育予算の削減を最小限にとどめさせる。
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1892(明治25)年 辻新次(51歳)、修身教科書機密漏洩事件の責任を取り、文部省退官。
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1894(明治27)年 辻新次(53歳)、教員遺族を救済することを目的に、生命保険を取り扱う仁寿生命(後に野村生命と合併、東京生命保険に)初代社長に。
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1896(明治29)年1月31日 辻新次(55歳)、貴族院議員に勅選。高等教育会議議員・教育調査会委員など歴任、教育擁護の立場からたびたび意見を提案。
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1896(明治29)年10月27日 辻新次(55歳)、錦鶏間祗候に。
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1897(明治30)年 辻新次(56歳)、高等教育会議議員に。
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1906(明治39)年 辻新次(65歳)、勲一等瑞宝章受章。
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1908(明治41)年 辻新次(67歳)、男爵受勲。
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1915(大正4)年11月30日 辻新次(74歳)、死去。享年74歳。明治前半期のほとんどの教育制度策定に関わり、「文部省の辻か、辻の文部省か」と言われる。「教育社会の第一の元老」・「明治教育界の元勲」と称される。