ダイガクコトハジメ - 開成所・大学南校
関連する学校・組織(前史)
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蛮書和解御用・藩書和解御用
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洋学所
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蕃書調所
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洋書調所
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開成所
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開成学校
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大学南校
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南校
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関連する教育者
参考情報
参考文献・書籍
学校略歴
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1811(文化8)年、高橋景保、江戸幕府天文方内に蛮(藩)書和解御用設置を提唱・設立
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1853(嘉永6)年、安政の改革、黒船来航による政局混乱を背景に、江戸幕府老中首座・阿部正弘が諸大名・旗本・庶民より国政改革の意見を募る、勝海舟・古賀謹一郎らが海防・外交・洋学研究組織設立について提唱
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1854(嘉永7/安政元)年、古賀謹一郎、従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充、洋学所設立、安政の大地震により洋学所が全壊消失
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1857(安政4)年2月、日本初の洋学研究教育機関として蕃書調所発足、初代頭取に古賀謹一郎、幕臣だけでなく諸藩より教授人材を採用、国内の著名な洋学者が集う、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当
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1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日)、学問所奉行設置、蕃書調所は昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に、「蕃書」の名称が実態に合わなくなり、洋書調所に改称
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1862(文久2)年、一ツ橋門外・護持院原(現・神田錦町)の広大な校地に移転
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1863(文久3)年10月11日(旧暦・8月29日)、開成所に改称
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1868(明治元)年、明治新政府が開成所を接収、開成学校に改称、洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす
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1868(慶応4/明治元)年、大阪府に大学校設立構想、大阪府知事・後藤象二郎と副知事・小松帯万が理化学校の大阪移転を建言、舎密局(京都大学の源流)創設が決定
→ 京都大学
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1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、明治新政府は当初、京都の学習院(漢学所・皇学所)を中心とする官立の大学校設立を構想
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東京奠都に伴い構想変更、東京の地に昌平学校を基盤とし、洋学・医学を織り交ぜた官立高等教育機関を設立する案に修正、皇学所・漢学所が京都から東京へ移される、昌平坂学問所(昌平黌)の漢学(儒学)派と皇学所の国学派が主導権を争い激しく対立
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1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日)、大学校設立、昌平学校を本校に、開成学校(後の東京大学)・医学校(後の東京大学医学部)を分局とする、教育機関としての役割だけでなく日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部省の前身)
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学に改称、昌平学校を大学本校に、開成学校を大学南校、医学校を大学東校に改称
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に、大学本校は当分休校、そのまま再開することなく廃校、昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす、大学南校を中核とする高等教育機関構想へ転換
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1870(明治3)年7月27日、貢進生、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進すること太政官布告
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1871(明治4)年7月、加藤弘之、文部大丞に、文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦、共に日本の教育制度改革に乗り出す、富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める
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1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日)、大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク、大学廃止、大学南校・大学東校が独立、新たに文部省設立
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学南校は文部省管轄に、南校に改称、文部省主導による貢進生廃止など制度改革のため一時閉鎖、翌10月に再開、外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となるも、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた
→ 東京大学
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1871(明治4)年8月、大学東校、ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる、日本の医学教育制度構築の全権を託す
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学東校は文部省管轄に、東校に改称、一旦閉鎖、学則改正後に再開、入学試験を通過した学力優秀者だけの再入学を許可
→ 東京大学医学部
創立者
学校年表
1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策
江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。
この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。
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1811(文化8)年 高橋景保(27歳)、江戸幕府天文方内に蛮(藩)書和解御用(後に開成所、東京大学の源流の一つ)設置を提唱、設立。主管に。『厚生新編』訳出を始める。大槻玄沢・宇田川榕菴・青地林宗など優秀な蘭学者が翻訳官に任命される。
- 1814(文化11)年 高橋景保(30歳)、書物奉行兼天文方筆頭に。
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1824(文政7)年 - 1828(文政11)年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27-31歳)、オランダ陸軍軍医として来日、長崎出島に居住。貿易のため、日本研究も命じられる。当時、外国人は出島を出ることは許可されていなかったが、医師として特別に許される。長崎郊外に私塾・鳴滝塾設立、オランダ医学・自然科学を教える。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・戸塚静海ら50人以上が学ぶ。
1825(文政8)年 異国船打払令
江戸幕府が発した、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃、追い返すとした外国船追放令。上陸外国人については逮捕を命じる。フェートン号事件・大津浜事件・宝島事件を受けて発令したものとみられる。また水戸の漁民たちが沖合で操漁する欧米の捕鯨船乗組員と物々交換を行っていたことが発覚、300人余りが取り調べを受けた事件が重要な動機となっている。
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高橋景保、樺太東岸の資料を求めていたところ、シーボルトよりクルーゼンシュテルン『世界周航記』などが贈られる。その代わりに、伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈る。日本地図は当時、禁制品扱いとなっており、これをシーボルトが持ち出そうとしたことが事件の発端となる。
1828(文政11)年9月 シーボルト事件
オランダ商館付医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本から帰国する直前。国外持ち出し厳禁の日本地図が見つかる。これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか、十数名が処分。高橋景保は獄死。
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シーボルト事件後、蛮書和解御用(藩書和解御用)は山路諧孝・山路彰常父子に引き継がれる。
1839(天保10)年 蛮社の獄
「蛮社」は洋学仲間の意、「蛮学社中」の略。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判した高野長英、渡辺崋山など蘭学者が捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。
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1839(天保10)年 箕作阮甫(41歳)、火災により医院断念、翻訳に専心。幕府天文台蕃書和解御用手伝に。伊東玄朴名義で『医療正始』・『坤輿初問』など訳述刊行。日本最初の国医学雑誌『泰西名医彙講』を編訳刊行。『外科必読』はじめ未刊のものが多い。生涯99部160冊余りを訳述。その分野は、医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。
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1840(天保11)年 杉田成卿(24歳)、天文台訳員に。
1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令
漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。
翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。
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1849(嘉永2)年 古賀謹一郎(34歳)、儒学者でありながらいち早く洋学の必要性を感じ、漢訳蘭書による独学にて、西洋事情を習得。アメリカからの漂流者・次郎吉から欧米の事情を取材、『蕃談』著作。書写本にて流布。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
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箕作阮甫、蛮社の獄で自殺した小関三英の後任として、幕府天文台蕃書和解御用に。外交文書の翻訳にあたる。ペリー来航時に応接、米大統領国書を翻訳。また対露交渉団の一員として、下田や長崎へ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
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1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。
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1853(嘉永6)年 古賀謹一郎(38歳)、ロシアから派遣されたプチャーチン艦隊の来航に際し、異国応接掛に。目付・筒井政憲、川路聖謨に随行。長崎でロシア使節と交渉。
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1854(嘉永7/安政元)年 古賀謹一郎(39歳)、ロシア艦隊が再来日。伊豆下田で交渉、日露和親条約の締結に至る。
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1854(嘉永7/安政元)年 古賀謹一郎(39歳)、従前からの洋学指向に加え、ロシアとの交渉でさらに西洋事情に通じ、日本の学問状況に危機感を抱く。度々、老中・阿部正弘に対し建白書を提出。洋学所(東京大学の源流)設立や外国領事館設置、沿海測量許可などの開明策を求め、阿部正弘の目に留まる。
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1854(嘉永7/安政元)年 堀達之助(32歳)、米国東インド艦隊の再来航時にも活躍、米国側からも好評価を受ける。日米和親条約の翻訳にも関与。締結後、下田詰めに。下田滞在時にドイツ商人リュードルフが、ドイツ(プロイセン、オーストリアおよびドイツ関税同盟諸国)も米英露と同様の条約を締結したい旨を要求。書簡を幕閣に報告せず独断で処理しようとしたと咎められ、入牢処分に。この事件は冤罪と言われる。獄中、吉田松陰と文通。
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1855(安政2)年1月18日 勝海舟(33歳)、目付兼海防掛・大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられる。
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1855(安政2)年8月30日 古賀謹一郎(40歳)、黒船によるペリー来航以来、江戸幕府は蘭学に止まらず、洋学研究の必要性を痛感。従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充、洋学所創立。老中・阿部正弘より直に、頭取を任じられる。
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1855(安政2)年 安政の大地震、洋学所が全壊消失。
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1855(安政2)年9月 古賀謹一郎(40歳)、蘭書翻訳・教育機関を構想。勝海舟(勝麟太郎)らと共に、蕃書調所(東京大学の源流)設立の草案作成。
1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令
新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。
1857(安政4)年2月 蕃書調所発足
洋学所を蕃書調所(東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(中村敬宇・中村正直)、加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。
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1857(安政4)年2月 古賀謹一郎(42歳)、蕃書調所発足。初代頭取に。
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幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。
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1857(安政4)年 西周(29歳)、蕃書調所の教授並手伝に。津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。
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1858(安政5)年、蕃書調所、幕臣の子弟に限らず、諸藩士の子弟の入学も認める。
1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立
江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎・伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所(東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎。
→ 医学所・大学東校
1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令
幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。
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1859(安政6)年、教授手伝に、坪井信良・赤沢寛堂・箕作秋坪が加わる。
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1859(安政6)年 古賀謹一郎(44歳)、入獄中の堀達之助の才能を惜しみ、便宜を図って出獄させる。日本最初の英和辞典『英和対訳袖珍辞書』を作らせる。
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1859(安政6)年 大鳥圭介(27歳)、蕃書調所に出仕。
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1859(安政6)年 福澤諭吉(25歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。蘭学塾が英学塾に転身する契機に。
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福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。蕃書調所へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、蕃書調所の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。
1860(安政7/万延元)年 万延元年遣米使節
1858(安政5)年7月29日(旧暦・6月19日)締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを軍艦操練所教授・勝海舟をはじめとする長崎海軍伝習所出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。
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1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、日米修好通商条約の批准交換のため、万延元年遣米使節が米軍艦ポーハタン号で渡米。この護衛艦・咸臨丸に軍艦奉行・木村摂津守の従者として乗り込み、アメリカへ。蒸気船を初めて目にしてからたった7年後、日本人のみの手によって初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海について、「日本人の世界に誇るべき名誉である」と述べる。
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福澤諭吉、アメリカにて、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関して衝撃を受ける。日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないなど、不思議に思う。
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福澤諭吉、アメリカより帰国。木村摂津守の推薦により、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕。外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっており、英語とオランダ語を対照するのに都合が良く、英語の勉強を行う。
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1860(安政7/万延元)年 堀達之助(38歳)、蕃書調所筆記方兼務。外国新聞の翻訳作業に従事。『官板バタビヤ新聞』発行、日本初の新聞に。
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1860(安政7/万延元)年12月 吉田賢輔(23歳)、蕃書調所筆記方出仕に。取締兼任。蘭英書を翻訳。海外の新聞を口訳、筆記方が筆記した後に出版。日本における新聞の始まりと言われる。
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1860(安政7/万延元)年 大鳥圭介(28歳)、『砲科新編』翻訳出版。日本初の合金製活版を作り、大鳥活字と呼ばれる。
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1860(安政7/万延元)年 加藤弘之(25歳)、蕃書調所教授手伝に。西洋文明の本質は兵学・武備よりも政体にあるとし、政治学に転じる。ドイツ語を学ぶ、日本のドイツ学の始まり。
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1860(安政7/万延元)年 杉亨二(33歳)、蕃書調所教授手伝に。
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1861(万延2/文久元)年8月5日(旧暦・6月29日) 箕作麟祥(16歳)、蕃書調所の英学教授手伝並出役。この頃より英学私塾を開く。乙骨太郎乙・鈴木唯一・外山正一・菊池大麓・箕作佳吉・大島貞益らに英学教授。
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1861(万延2/文久元)年 加藤弘之(26歳)、日本で最初に欧米の立憲思想を紹介した『鄰草』著作。議会制度の必要性を説く。
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1861(万延2/文久元)年 辻新次(20歳)、江戸に出る。蕃書調所にて、苦学しながらオランダ語・英語・フランス語・西洋兵学を学ぶ。また、蕃書調所精錬所(後に化学局)に入所、大砲の鋳造や火薬製造学ほか化学を学ぶ。
1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置
文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所は昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。
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1862(文久2)年6月15日(旧暦・5月18日)、蕃書調所、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に、洋書調所に改称。
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1862(文久2)年、洋書調所、一ツ橋門外・護持院原(現・神田錦町)の広大な校地に移転。後の開成所・開成学校、東京大学法理文三学部に継承される。
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1862(文久2)年 古賀謹一郎(47歳)、御留守居番に就任。同時に、蕃書調所頭取を解任される。原因は不明。以後4年間失職、不遇の内に過ごす。
1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 文久遣欧使節団
1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中・福地源一郎・福澤諭吉・松木弘安(寺島宗則)・箕作秋坪・尺振八らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。
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1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、文久遣欧使節に幕府翻訳方として同行。同行者に、寺島宗則・福地源一郎・箕作秋坪・尺振八がおり、行動を共に。途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに。イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚く。書物では分からない、病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など、未知の事柄・日常について調べる。
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福澤諭吉、ロンドンにて万国博覧会視察。蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクにて、陸軍病院で外科手術を見学。
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福澤諭吉、幕府支給の支度金400両で、英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰る。
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1862(文久2)年 西周(34歳)、幕命により津田真道・榎本武揚らと共にオランダ留学。ライデン大学にてシモン・フィッセリングに法学を学ぶ。カント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。
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1863(文久3)年10月11日(旧暦・8月29日)、洋書調所、開成所に改称。中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくとされる。
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1863(文久3)年 堀達之助(41歳)、開成所教授に。
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1863(文久3)年 大鳥圭介(31歳)、海陸軍兵書取調方出役。開成所教授を兼務。
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1863(文久3)年 辻新次(22歳)、開成所精錬方世話心得に。
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1864(文久4/元治元)年 加藤弘之(29歳)、幕府旗本に。開成所教授職並に。
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1864(文久4/元治元)年 辻新次(23歳)、軍人志望、西洋兵学を実戦で試す絶好の機会として、藩に無断で幕府の武田耕雲齋討伐軍に加わる(天狗党の乱)。藩に呼び戻され、譴責を受ける。
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1864(文久4/元治元)年 外山正一(17歳)、開成所教授方に。若くして英才を謳われる。
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1864(文久4/元治元)年 杉亨二(37歳)、開成所教授に。洋書翻訳に従事している際、バイエルン王国における識字率についての記述に触れたことが、統計学と関わるきっかけに。
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1865(元治2/慶応元)年8月、ボードウィンが化学の専門家招聘を幕府に建言。オランダ人理化学者クーンラート・ハラタマ(Koenraad Wolter Gratama)を招聘。長崎精得館の物理・舎密(化学)研究所として、分析究理所(長崎大学薬学部の前身、京都大学の源流)附設。
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1865(元治2/慶応元)年 西周(37歳)、オランダより帰国。開成所教授に。
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1866(慶応2)年2月9日、オランダ二等軍医・ハラタマが来日。分析究理所教師に。
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1866(慶応2)年 辻新次(25歳)、再び江戸へ、開成所に復帰も、火薬製造中の事故で負傷。以後、教育家になることを決心。フランス学の研究に邁進。開成所化学教授手伝並に。下谷練塀町(現・秋葉原)で仏学塾を経営。教え子に古市公威ら。
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1867(慶応3)年、幕府、開成所内に理化学校建設。ハラタマを江戸に招聘。翌年春の開講を予定も、幕府瓦解により講義が行われることなく終わる。
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1867(慶応3)年7月 何礼之(28歳)、開成所教授並に。江戸へ赴く。江戸でも英語私塾を拓き、星亨・中村六三郎・土取忠良を育てる。
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1867(慶応3)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(57歳)、佐賀藩諫早家の屋敷内に、英学校・蕃学稽古所設立。1868(慶応4)年に副島種臣・大隈重信の手引きにより幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で教えていたオランダ人宣教師フルベッキが校長として招かれる。致遠館に改名。新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われる。副島種臣・大隈重信もフルベッキに学びながら、教頭格として教壇に立つ。佐賀藩のみならず広く他藩の人材も在学。勝海舟の子・勝小鹿、岩倉具視の子・岩倉具定・岩倉具経、服部一三、相良知安ほか100余名の学生を擁する。1869(明治2)年4月、フルベッキが明治新政府より招かれ上京、大学南校(現・東京大学)教師に。閉校。
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1867(慶応3)年 前島密(33歳)、開成所数学教授に。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し
官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所と医学所を接収
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1868(慶応4/明治元)年 箕作麟祥(23歳)、フランスより帰国後、明治新政府に出仕。開成所御用掛から兵庫県御用掛となって新設の神戸洋学校教授に着任。当時の兵庫県令・伊藤博文、着任を騎馬で出迎えて歓迎。
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1868(慶応4/明治元)年6月 何礼之(29歳)、明治新政府に出仕。開成所御用掛・訳官に。次いで大阪行きを命じられ、外国事務局・小松清廉(小松帯刀)を補佐する一等訳官に。
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1868(慶応4/明治元)年 何礼之(29歳)、『仮語学所積高』提案。大阪府に舎密局・医学館・語学所から成る大学校設置を計画。
1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収
明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
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1868(明治元)年10月27日(旧暦・9月12日)、開成所を開成学校に改称。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。
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1868(慶応4/明治元)年 辻新次(27歳)、明治新政府により接収された開成学校の教授試補に。
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1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、京都に大学校を新設する太政官布告。これにより、漢学所が11月2日(旧暦・9月18日)開講。やや遅れ、1月26日(旧暦・12月14日)に皇学所開講。
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東京奠都、明治新政府により、京都での大学校設立構想は修正。東京の地に昌平坂学問所(昌平黌)を基盤とし、洋学・医学を織り交ぜた高等教育機関を設立する案へと変更。皇学所・漢学所が京都から東京へ移されることに。皇漢両学を教授する大学校の本校に、皇学所出身者が採用される。昌平坂学問所(昌平黌)の漢学(儒学)派と皇学所の国学派が激しく対立。
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1868(慶応4/明治元)年、大阪府知事・後藤象二郎と参与兼外国宮副知事・小松帯万により、理化学校の大阪移設が建言される。明治新政府は舎密局(京都大学の源流)として大阪移設を決定。開成所御用掛の田中芳男・神田孝平・箕作麟祥・何礼之助、教師ハラタマと生徒数名を派遣。
→ 京都大学
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1868(慶応4/明治元)年12月 加藤弘之(33歳)、明治新政府に出仕、政体律令取調御用掛に。新しい国の政体について研究・提言。『立憲政体略』刊行。
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1868(慶応4)年 福澤諭吉(34歳)、明治新政府から出仕を求められるも、辞退。以後、官職につかず。翌年1869(明治2)年、帯刀をやめ、平民に。
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1869(明治2)年6月10日(旧暦・5月1日)、大阪城西側大手前旧城番邸跡にて、大阪府所轄の舎密局(大阪舎密局)開校。オランダ人化学教師・ハラタマが教頭に。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1869(明治2)年 箕作麟祥(24歳)、東京に戻る、外国官翻訳御用掛となるも、外交官を好まず。大学南校大学中博士に転じる。この頃、私塾を開く。岸本辰雄・中江兆民・大井憲太郎らを育てる。
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1869(明治2)年9月、大阪府立の大阪洋学校(後に大阪英語学校)設立。英語科設置。後にフランス語科も設置される。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年4月 目賀田種太郎(18歳)、藩命により貢進生として上京、大学南校入学。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1870(明治3)年7月27日 貢進生
太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。
1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。
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田尻稲次郎、法律学を志し、鹿児島藩貢進生として大学南校に戻る。
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1870(明治3)年 岸本辰雄(20歳)、鳥取藩より貢進生として推薦。大学南校入学。
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1870(明治3)年 木下広次(20歳)、熊本藩貢進生として大学南校入学。
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1870(明治3)年8月 矢代操(19歳)、鯖江藩より貢進生として推薦。大学南校入学。
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1870(明治3)年8月 目賀田種太郎(18歳)、大学南校の第1回国費留学生に。アメリカ留学を願い出る。
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1870(明治3)年 古市公威(17歳)、姫路藩の貢進生として、大学南校進学。
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1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手。
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江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥・加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年7月 江藤新平(38歳)、文部大輔に。加藤弘之と共に日本の教育制度改革に着手。大学本校・大学南校・大学東校の分裂問題を担当、「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。また、文部省務の大綱を定める。後任の盟友、初代文部卿・大木喬任の下、学制として体系化される。
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1871(明治4)年 坪井玄道(20歳)、大学南校卒業。成績優秀につき、得業生として大学南校教官に。
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1871(明治4)年 松井直吉(15歳)、大垣藩の藩命により、貢進生として大学南校入学。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学南校、文部省管轄に。南校に改称。
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1871(明治4)年、第一回国費留学生として、各分野から11名をアメリカ・ヨーロッパへ留学させる。うち、池田謙斎・大沢謙二・長井長義ら9名がドイツ医学修養のためにドイツへ。
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1871(明治4)年9月27日、司法省明法寮設置。法律専門家の育成が急務に。
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
→ 東京大学
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、東校、南校と同様に一旦閉鎖。学則改正後、再開。入学試験を実施、学力優秀者の再入学を許可。
→ 東京大学医学部