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ダイガクコトハジメ - 順天堂大学

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学校略歴

  • 1838(天保9)年、佐藤泰然、蘭医学塾・和田塾創立、長崎より同道した林洞海三宅艮斎の助けを得る、江戸有数の外科塾に

  • 1843(天保14)年10月、佐藤泰然、蛮社の獄で高野長明との師弟関係より幕府より要注意人物とされる、蘭医学塾・和田塾を女婿の林洞海に託し、門人・山口舜海(後に佐藤尚中)らを伴って佐倉移住、病院兼蘭医学塾・佐倉順天堂創立

  • 1852(嘉永5)年、外科治療の技術は当時の最高水準を極める、大阪の緒方洪庵適塾(適々斎塾)とならぶ有名蘭学塾に、「日新の医学、佐倉の林中から生ず」

  • 1868(慶応4/明治元)年、戊辰戦争の戦乱により、佐倉養生所閉鎖

  • 1869(明治2)年12月、佐藤尚中、明治新政府より医学教育確立のための出仕を求められる、大学大博士に

  • 1872(明治5)年1月11日、佐藤尚中東校(現・東京大学医学部)学事主務兼院長に

  • 1872(明治5)年10月、佐藤尚中、佐々木東洋らと共に日本初の私立病院・博愛舎設立

  • 1873(明治6)年、佐藤尚中、ドイツ人教師が東校(現・東京大学医学部)の全権を握り、医学生の大半を退学させ、外来患者の数も限定する事態に心を痛める、順天堂設立

  • 1875(明治8)年 -、国家試験による医師の開業許可制が採用され、医術開業試験開始、医術開業試験はその合格のために「前期3年後期7年」と言われるほどの難関であり、受験のために多くの医学受験校が生まれる、医師免許は医術開業試験合格者のほか、医学教育機関卒業者に対して無試験で与えられる

  • 1943(昭和18)年、順天堂医学専門学校設立

  • 1946(昭和21)年、大学昇格、順天堂医科大学設立

  • 1951(昭和26)年、学制改革により新生大学に、順天堂大学発足

創立者

学校年表

1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策

江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。

この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。

  • 1824(文政7)年 - 1828(文政11)年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27-31歳)、オランダ陸軍軍医として来日、長崎出島に居住。貿易のため、日本研究も命じられる。当時、外国人は出島を出ることは許可されていなかったが、医師として特別に許される。長崎郊外に私塾・鳴滝塾設立、オランダ医学・自然科学を教える。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・戸塚静海ら50人以上が学ぶ。

1825(文政8)年 異国船打払令

江戸幕府が発した、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃、追い返すとした外国船追放令。上陸外国人については逮捕を命じる。フェートン号事件・大津浜事件・宝島事件を受けて発令したものとみられる。また水戸の漁民たちが沖合で操漁する欧米の捕鯨船乗組員と物々交換を行っていたことが発覚、300人余りが取り調べを受けた事件が重要な動機となっている。

  • 高橋景保、樺太東岸の資料を求めていたところ、シーボルトよりクルーゼンシュテルン『世界周航記』などが贈られる。その代わりに、伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈る。日本地図は当時、禁制品扱いとなっており、これをシーボルトが持ち出そうとしたことが事件の発端となる。

1828(文政11)年9月 シーボルト事件

オランダ商館付医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本から帰国する直前。国外持ち出し厳禁の日本地図が見つかる。これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか、十数名が処分。高橋景保は獄死。

  • 1830(文政13/天保元)年 佐藤泰然(27歳)、蘭方医を志す。刎頚の友もなる松本良甫を誘い、蘭方医・足立長雋に入門。また、シーボルトの高弟・高野長英に師事。

  • 1830(文政13/天保元)年 三宅艮斎(14歳)、長崎にて蘭方医・楢林栄建にオランダ医学・外科を学ぶ。同じく長崎で蘭医を学ぶ佐藤泰然と親交を深める。

  • 1835(天保6)年 佐藤泰然(32歳)、長崎留学。3年間、オランダ医学を学ぶ。蘭書翻訳、種痘法を学ぶ。

  • 1838(天保9)年 佐藤泰然(35歳)、江戸日本橋薬研堀に蘭医学塾・和田塾(順天堂の前身)創立。長崎より同道した林洞海三宅艮斎の助けを得る。江戸有数の外科塾として名をあげる。

  • 1838(天保9)年 林洞海(26歳)佐藤泰然が創立したに蘭医学塾・和田塾(順天堂の前身)を助ける。傍ら、オランダ人医師ファン・デル・ワートル『薬性論』を翻訳。長崎留学の資金を得る。

  • 1838(天保9)年 三宅艮斎(22歳)佐藤泰然に従って江戸へ。開業。佐藤泰然が創立した蘭医学塾・和田塾(順天堂の前身)を助ける。

1839(天保10)年 蛮社の獄

江戸幕府による蘭学者弾圧事件。モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判した高野長英、渡辺崋山など蘭学者が捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。

  • 1843(天保14)年10月 佐藤泰然(40歳)、蛮社の獄で永牢となった高野長明との師弟関係などから幕府より要注意人物とされていた折、佐倉藩家老・渡辺弥一兵衛より招聘を受ける。蘭医学塾・和田塾を女婿の林洞海に託し、佐倉に移住。門人・山口舜海(後に佐藤尚中)らが同行。病院兼蘭医学塾・佐倉順天堂創立。初代堂主に。その治療は当時の最高水準を極める。手術の記録は高弟・関寛斎の『順天堂外科実験』に記される。

  • 1844(天保15/弘化元)年 三宅艮斎(28歳)、佐倉藩医に。佐倉藩侯の侍医となる。

  • 1848(弘化5/嘉永元)年 松本良順(17歳)、佐倉藩で病院兼蘭医学塾・佐倉順天堂を開設していた父・佐藤泰然の元へ行き、助手を勤める。

1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令

漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。

翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。

  • 1849(嘉永2)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(35歳)、1846(弘化3)年より佐賀藩内で天然痘が大流行。当時不治の病であった天然痘根絶のため、佐賀藩医・伊東玄朴の進言により、長崎出島のオランダ商館を通じて牛痘種痘苗を入手。佐賀城内にて種痘接種。佐賀藩が漢方から蘭方医学へ転換する象徴的な出来事となる。この痘苗は、長崎・佐賀を起点とし、複数の蘭方医の手によって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播。

  • 1849(嘉永2)年7月20日 伊東玄朴(49歳)、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言。オランダ商館を通じ、入手に成功。この痘苗が長崎から京都・大阪・福井から北陸へと広まる。10月に江戸に運ばれ、関東や東北へ広まる。

  • 1849(嘉永2)年12月15日(旧暦・11月1日) 緒方洪庵(40歳)、京都に赴き滞在7日、出島の医師オットー・モーニッケが輸入した痘苗を入手。古手町(現・大阪市中央区道修町)に大坂除痘館設立。牛痘種痘法による切痘を始める。

  • 1849(嘉永2)年12月 佐藤泰然(46歳)、佐倉藩に牛痘を導入。普及に努める。

  • 1851(嘉永4)年 佐藤泰然(48歳)、訳書を基に、日本最初の膀胱穿刺手術に成功。

  • 1852(嘉永5)年 佐藤泰然(49歳)、日本最初の卵巣嚢腫摘出術などを行う。蘭学の先進医療を行うと共に、医学界を担う人材を育成。佐倉順天堂は大阪の緒方洪庵適塾(適々斎塾)とならぶ有名蘭学塾に。「日新の医学、佐倉の林中から生ず」

  • 1853(嘉永6)年 佐藤泰然(50歳)、功績が認められ、佐倉藩士に取り立てられる。藩医に。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

1855(安政2)年 長崎海軍伝習所設立

ペリー来航後間もなく、海防強化を急務とする江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定。オランダ商館長の勧めにより、海軍士官養成のための教育機関設立を決める。長崎奉行を通じ、オランダから練習艦として帆船(後の観光丸)の寄贈を受ける。併せて、オランダ人教官隊を招聰。長崎奉行所西屋敷(現・長崎市江戸町)に長崎海軍伝習所設立。総監理に永井尚志

  • 長崎海軍伝習所、オランダ人教官よりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などが教授される。またその基礎として、西洋数学・天文学・地理学なども授けられる。幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が伝習に参加。これらの人々の中から、勝海舟(勝麟太郎)・榎本武揚ら幕臣、五代友厚・佐野常民ら諸藩士など、幕末維新期の指導的人材を数多輩出する。

1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令

新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。

  • 1857(安政4)年11月12日、長崎海軍伝習所にて、第二次海軍伝習隊と共にオランダ軍医・ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)が来日。医学伝習所(後に長崎医学校、現・長崎大学医学部)創立。幕府医官・松本良順ら12名に医学講義を行う。西洋医学の伝習が始められ、江戸とならび長崎が幕末における西洋医学の中心に。西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなる。

1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立

江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎

1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令

幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。

  • 1858(安政5)年7月3日 伊東玄朴(58歳)、江戸幕府13代将軍・徳川家定が脚気により重態に。漢方医の青木春岱、遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海と共に幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用される始まりとなる。

1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足

種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎

  • 1861(万延2/文久元)年9月 松本良順(30歳)、コレラ流行を踏まえ、長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴える。病院設立の必要を説き、幕府がこれに応じる。長崎に124床のベッドを持つ日本初の近代西洋医学病院・小島養生所開院。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、極めて民主的なものであった。あわせて医学伝習所をここに移転、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)として併設。初代頭取に。

  • 1862(文久2)年 緒方洪庵(53歳)、幕府より西洋医学所頭取として出仕要請。健康上の理由から一度は固辞するも、度重なる要請を受けて江戸出仕。奥医師兼西洋医学所第2代頭取に。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。

  • 1862(文久2)年12月16日 伊東玄朴(62歳)、蘭方医として初めて法印に進み、長春院と号す。名実共に、蘭方医の頂点に立つ。

  • 1862(文久2)年12月 緒方洪庵(53歳)、法眼に叙せられる。富と名声を得るも、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しむ。さらに、蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じてピストルを購入。

  • 1863(文久3)年7月 松本良順(32歳)緒方洪庵の後任として、医学所(現・東京大学医学部)第3代頭取就任。適塾(適々斎塾)式を廃止、ポンぺ式に刷新。教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」。適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。

  • 1864(文久4/元治元)年 渡辺洪基(17歳)、江戸に出る。佐倉順天堂第2代堂主の佐藤舜海に師事。

  • 1865(元治2/慶応元)年春 松本良順(34歳)、ポンペの教えに従い、医学所の組織を整備拡充、7科(物理・化学・解剖・生理・病理・薬剤学・内科・外科)を置く。

  • 1866(慶応2)年5月 松本良順(35歳)、種痘のための出張所を江戸数ヵ所に設置。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 松本良順(37歳)、戊辰戦争、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となる。会津戦争後、仙台にて降伏。一時、投獄。戦乱により医学所は休止状態に。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

  • 1868(慶応4/明治元)年7月、横浜の軍陣病院を下谷藤堂邸に移転、大病院と称す。医学所を附属とする。

  • 1868(慶応4/明治元)年8月14日(旧暦・6月26日)、医学所医学校に改称。翌年1月より、イギリス公使館付医師・Wウィリスを教師として授業開始。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。

  • 明治維新後、それまでの医学校では日本人教師によりオランダ医学を教えていたが、イギリス人教師によるイギリス医学が取り入れられる。しかし、ドイツ医学が優秀であることを認め、ドイツ医学を中心とすることに方針転換。

  • 1869(明治2)年6月 相良知安(34歳)、ドイツより教師を招くことを建議。2名を招請することに。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1869(明治2)年12月 佐藤尚中(舜海)(43歳)、明治新政府より医学教育確立のための出仕を求められる。一度は辞退も、要請に応じる。大学大博士に。

  • 1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。

  • 1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。

  • 1871(明治4)年8月、大学東校にドイツ人教師ミュルレルとホフマンの招聘が実現、来任。ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる。日本の医学教育制度構築の全権を託す。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、東校(現・東京大学医学部)が一旦閉鎖。学則改正後、再開。入学試験を実施、学力優秀者の再入学を許可。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1873(明治6)年 佐藤尚中(舜海)(47歳)、ドイツ人教師が東校(現・東京大学医学部)の全権を握り、医学生の大半を退学させ、外来患者の数も限定する事態に。患者も医学生も居場所を失ってしまったことに心を痛める。佐倉藩に戻る予定を取りやめ、下谷練塀町9番地(現・秋葉原)に順天堂設立。博愛舎の患者が転院。医学生の教育を行う。

1875(明治8)年 - 1916(大正5)年 医術開業試験

1874(明治7)年の医制公布により、国家試験による医師の開業許可制が採用される。新規開業の医師に西洋医学の知識が必須となる。医師免許は医術開業試験合格者のほか、医学教育機関卒業者に対して無試験で与えられる。

医術開業試験はその合格のために「前期3年後期7年」と言われるほどの難関であり、受験のために多くの医学受験校が生まれる。これら予備校より、後に私立医学専門学校・私立医科大学が誕生する。

  • 1875(明治8)年 佐藤尚中(舜海)(49歳)、盛況のため手狭となり、湯島に順天堂医院(現・順天堂大学医学部附属順天堂医院)設立。初代院長に。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令

原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。

その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。

  • 1943(昭和18)年、順天堂医事研究会を母体に、順天堂医学専門学校設立。

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

  • 1946(昭和21)年、大学昇格、順天堂医科大学(現・順天堂大学)設立。

  • 1951(昭和26)年、学制改革により新生大学に、順天堂大学発足。

 

順天堂大学年表

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