ダイガクコトハジメ - 高木兼寛
出身校
- 開成所洋学局
- 聖トーマス病院医学校(現・キングス・カレッジ・ロンドン)
関連する学校・組織(前史)
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鹿児島医学校
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海軍病院学舎
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海軍医務局学舎
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海軍医学校
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海軍大学校
関連する学校・組織(現代)
関連する教育者
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アンダーソン
- 石神良策
- 松山棟庵
参考情報
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参考文献・書籍
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年表 | 動画
高木兼寛
たかきかねひろ
1849(嘉永2)年10月30日(旧暦9月15日) - 1920(大正9)年4月13日
医学博士、鹿児島医学校教授、海軍大軍医・軍医総監・東京海軍病院長・海軍医務局長・海軍軍医総監、東京慈恵会医科大学創立、海軍医学校創立、有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)開院、「日本の疫学の父」
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1849(嘉永2)年10月30日(旧暦9月15日) 高木兼寛(1歳)、日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎県宮崎市高岡町)に薩摩藩郷士・高木喜助兼次の長男として生まれる。
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1866(慶応2)年 高木兼寛(18歳)、薩摩藩蘭方医・石神良策に師事。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1867(慶応3)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
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1868(慶応4/明治元)年 高木兼寛(20歳)、戊辰戦争、薩摩藩兵の軍医として従軍。
1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し
官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1869(明治2)年 高木兼寛(21歳)、開成所洋学局入学。英語・西洋医学を学ぶ。
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1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。
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明治維新後、それまでの医学校では日本人教師によりオランダ医学を教えていたが、イギリス人教師によるイギリス医学が取り入れられる。しかし、ドイツ医学が優秀であることを認め、ドイツ医学を中心とすることに方針転換。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年 高木兼寛(22歳)、薩摩藩・鹿児島医学校入学。校長の英国人ウィリアム・ウィリスに認められ、教授に抜擢。
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1871(明治4)年8月、大学東校にドイツ人教師ミュルレルとホフマンの招聘が実現、来任。ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる。日本の医学教育制度構築の全権を託す。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1872(明治5)年1月11日 佐藤尚中(舜海)(46歳)、東校(現・東京大学医学部)学事主務兼院長に。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年10月8日 相良知安(37歳)、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)初代校長に。『医制略則』起案。今日まで続く医学制度の基礎に。
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1872(明治5)年 高木兼寛(24歳)、海軍軍医寮(後の海軍省医務局)の幹部になった石神良策の推挙により。一等軍医副として海軍入り。海軍病院勤務の傍ら、病院や軍医制度に関して建議。当年、大軍医に昇進。
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1873(明治6)年 松山棟庵(35歳)、福澤諭吉と共に、当時蘭医が主流だった中で英医を学ぶことができる医学校の設立を画策。慶應義塾医学所創立、校長に。慶應義塾大学医学部の源流になると共に、東京慈恵会医科大学の源流ともなる。
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1873(明治6)年 佐藤尚中(舜海)(47歳)、ドイツ人教師が東校(現・東京大学医学部)の全権を握り、医学生の大半を退学させ、外来患者の数も限定する事態に。患者も医学生も居場所を失ってしまったことに心を痛める。佐倉藩に戻る予定を取りやめ、下谷練塀町9番地(現・秋葉原)に順天堂設立。博愛舎の患者が転院。医学生の教育を行う。
1875(明治8)年 - 1916(大正5)年 医術開業試験
1874(明治7)年の医制公布により、国家試験による医師の開業許可制が採用される。新規開業の医師に西洋医学の知識が必須となる。医師免許は医術開業試験合格者のほか、医学教育機関卒業者に対して無試験で与えられる。
医術開業試験はその合格のために「前期3年後期7年」と言われるほどの難関であり、受験のために多くの医学受験校が生まれる。これら予備校より、後に私立医学専門学校・私立医科大学が誕生する。
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1875(明治8)年 松山棟庵(37歳)、東京医学会社(現・日本医学会)創立。『医学研究雑誌』発刊。
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1875(明治8)年 高木兼寛(27歳)、海軍病院学舎(後の海軍医学校)教官・英国海軍軍医アンダーソンに認められる。アンダーソンの母校・聖トーマス病院医学校(現・キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。最優秀学生の表彰を受ける。英国外科医・内科医・産科医資格、英国医学校の外科学教授資格を取得。
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1877(明治10)年 松山棟庵(39歳)、東京開業医師集会(現・日本医師会)創立。
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1880(明治13)年 高木兼寛(32歳)、帰国。東京海軍病院長に。
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1881(明治14)年1月 高木兼寛(33歳)、日本医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色、学理第一・研究優先になっている現状を憂う。前年に廃止した英医学校・慶應義塾医学所創立者である松山棟庵らと共に、臨床を第一とする英医学・患者本位の医療を広めるための医学団体・成医会創立。
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1881(明治14)年5月1日 高木兼寛(33歳)、松山棟庵が設立した東京医学会社の2階大広間にて、医業開業試験受験予備校(乙種医学校)・成医会講習所(現・東京慈恵会医科大学)創立。夜間医学塾の形式で、講師の多くは海軍軍医団が務めた。
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1881(明治14)年5月1日 松山棟庵(43歳)、高木兼寛と共に、医業開業試験受験予備校(乙種医学校)・成医会講習所(現・東京慈恵会医科大学)創立。
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1881(明治14)年、海軍病院学舎にて第1回卒業生を輩出すると、アンダーソン医学博士が英国帰国。教育が継続不可能に。
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1882(明治15)年 高木兼寛(34歳)、海軍医務局副長に。また、アンダーソン医学博士の帰国により継続不可能になっていた海軍病院学舎を立て直すため、軍医スタッフと自ら教鞭をとり、海軍医務局学舎創立。学舎長に。
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1882(明治15)年8月10日 高木兼寛(34歳)、松山棟庵・戸塚文海と共に、「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」を設立主旨に、有志の拠金により、有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)開院。芝公園の天光院に仮住まいする形で診療を始める。
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1883(明治16)年 高木兼寛(35歳)、海軍医務局長に。
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1884(明治17)年4月19日 高木兼寛(36歳)、芝愛宕町の旧東京府病院跡にて、有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)正式に開院。病院総長に有栖川宮威仁親王を戴く。大日本帝国海軍軍医団の強い支援を得る。
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1885(明治18)年 高木兼寛(37歳)、皇室・貴族を中心に婦人慈善会が鹿鳴館にてバザーを行い、その収益金によって日本初の看護婦教育所・有志共立東京病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)創立。皇室の協力を得て、病院の経営基盤は強化された。
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1885(明治18)年 高木兼寛(37歳)、海軍軍医総監に。遠洋航海実習を利用し、脚気と栄養素との因果関係を実験観察。
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1886(明治19)年 高木兼寛(38歳)、海軍医務局学舎を海軍医学校に改称。芝山へ移転。海軍病院と離れてしまったため、臨床実験や実習など隣接する有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)の協力を得る。
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1887(明治20)年 高木兼寛(39歳)、有志共立東京病院看護婦教育所を東京慈恵医院看護婦教育所に改称。日本で初めて、看護留学生を英国セント・トーマス病院に留学させる。
1887(明治20)年5月21日 学位令
日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。
1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。
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1888(明治21)年5月7日、学位令に基づき、25名に初めて博士の学位が授与される。「法学博士」箕作麟祥・田尻稲次郎・菊池武夫・穂積陳重・鳩山和夫、「医学博士」池田謙斎・橋本綱常・三宅秀・高木兼寛・大沢謙二、「工学博士」松本荘一郎・原口要・古市公威・長谷川芳之助・志田林三郎、「文学博士」小中村清矩・重野安繹・加藤弘之・島田重礼・外山正一、「理学博士」伊藤圭介・長井長義・矢田部良吉・山川健次郎・菊池大麓。
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1888(明治21)年 高木兼寛(40歳)、日本最初の医学博士に。
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1889(明治22)年 高木兼寛(41歳)、成医会講習所が医学校として認可。成医学校(現・東京慈恵会医科大学)と改称。
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1891(明治24)年 高木兼寛(43歳)、勲二等受勲。
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1892(明治25)年 高木兼寛(44歳)、予備役に。
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1894(明治27)年3月、全生徒・候補生が卒業、海軍医学校廃止。医学教育は海軍大学校に創設された軍医科で継続される。
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1905(明治38)年 高木兼寛(57歳)、日露戦争で脚気予防として麦飯の有効性が注目される。華族に列せられ、男爵位に。
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1914(大正3)年3月1日 高木兼寛(66歳)、退役。
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1920(大正9)年 高木兼寛(72歳)、死去。享年72歳。従二位と勲一等旭日大綬章が追贈される。
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